萩原君。
 何と言っても私は君を愛する。そして室生君を。それは何と言っても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保ってゆかれる愛だ。この三人の生命を通じ、よしそこにそれぞれ天稟《てんぴん》の相違はあっても、何と言ってもおのずからひとつ流の交感がある。私は君達を思う時、いつでも同じ泉の底から更に新しく湧き出してくる水の清《すず》しさを感じる。限りなき親しさと驚きの眼をもって私は君達のよろこびとかなしみとを理解する。そして以心伝心に同じ哀憐《あいれん》の情が三人の上に益々深められていくのを感じる。それは互の胸の奥底に直接に互の手を触れ得るたった一つの尊いものである。

 私は君をよく知っている。そして室生君を。そして君達の詩とその詩の生いたちとをよく知っている。『朱欒』《ざんぼあ》のむかしから親しく君達は私に君達の心を開いてくれた。いい意味においてその後もわれわれの心の交流は常住新鮮であった。おそく今後においても。それは回り澄む三つの独楽《こま》が今やまさに相触れんとする刹那の静謐である。そこには限りの知られぬおののきがある。無論三つの生命は確実に三つのすわりを保っていなけらばならぬ。しかるのちにそれぞれ澄みきるのである。微妙な接吻がそののちに来る。同じ単純と誠実とをもって。しかも互の動悸《どうき》を聴きわけるほどの澄徹さをもって。幸に君達の生命も玲瓏《れいろう》としている。

 室生君と同じく君も又生れた詩人の一人である事は誰も否むわけにはいくまい。私は信じる。そして君の異常な神経と感情の所有者である事も。例えばそれは憂鬱な香水に深く浸した剃刀《かみそり》である。しかもその予覚《よかく》は常に来るべき悲劇に向かって震えている。しかしそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると言うよりも、凶悪に対する自衛、もしくは自分自身に向けられる懺悔《ざんげ》の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那において、まさしく君の肋骨の一本一本をも数え得るほどの鋭さを持っているからだ。
 しかしこの剃刀は幾分君の好奇な趣味性に匂いづけられている事もほんとうである。時には安らかにそれでもって君は君の薄い髯《ひげ》をあたる。

 清純な凄さ、それは君の詩を読むものの誰しも認め得る特色であろう。しかしそれは室生君の言う通り、ポオやボードレールの凄さとは違う。君は寂しい、君は正直で、清楚で、透明で、もっと細かにぴちぴち動く。少なくとも彼等の絶望的な暗さや頽廃した幻覚の魔睡は無い。宛然《えんぜん》涼しい水銀の鏡に映る剃刀の閃めきである。その鏡に映るものは真実である。そしてそこには玻璃《はり》製の上品な市街や青空やが映る。そして恐るべき殺人事件が突如として映ったり、素敵に気の利いた探偵が走ったりする。

 君の気稟《きひん》は又例えば地面に直角に立つ一本の竹である。その細かい幹は鮮やかな青緑で、その葉は華奢《きゃしゃ》でこまかに動く。たった一本の竹、竹は天を直観する。しかもこの竹の感情は全てその根に沈潜して行くのである。根の根の細かな繊毛のその分かれのほとんど有るか無きかの毛の先のイルミネーション、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の先端にかじりついて泣く男、それは病気の朔太郎である。それは君も認めている。

 「詩は神秘でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。」と君は言う。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの啜り泣きはそこから来る。そしてその葉その根の先まで光り出す。

 君の霊魂は私の知っている限りまさしく蒼い顔をしていた。ほとんど病み暮らしてばかりいるように見えた。しかしそれは真珠貝の生身《なまみ》が一顆《いっか》小砂に擦《す》られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身《なまみ》であり、生身から滴《したた》らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明している。

 外面的に見た君も極めて痩せて尖っている。そしてその四肢《てあし》が常に鋭角に動く、まさしく竹の感覚である。しかも突如として電流体の感情が頭から足の爪先まで震わす時、君はぴょんぴょん跳ねる。そうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちそうで、何かにすがりつきたい風である。
 潔癖で我儘《わがまま》なお坊っちゃんで《この点は私とよく似ている》その癖寂しがりの、いつも白い神経を露《あら》わに震えさせている人だ。それは電流の来ぬ前の電球の硝子の中の震えてやまぬ竹の線である。

 君の電流体の感情はあらゆる液体を固体に凝結せずんばやまない。竹の葉の水気が集って一滴の露となり、腐れた酒の蒸気が冷たいランビキの玻璃《はり》に透明な酒精《しゅせい》の雫を形づくるまでのそれ自身の洗練はかりそめのものではない。君のセンチメンタリズムの信条はまさしく木炭が金剛石になるまでの永い永い時の長さを、一瞬の間に縮める、この凝念の強さであろう。摩訶不思議なるこの真言の秘密はただ詩人のみが知る。

 月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が鳴いても吠える。夜はなおさらきらきらと霜が降りる。霜の降りる声まで嗅ぎ知って吠える。天を仰ぎ、真実に地面《じべた》に生きているものは悲しい。

 ぴょうぴょうと吠える、何かがぴょうぴょうと吠える。聴いていてさえも身の痺《しび》れるような寂しい遣る瀬《やるせ》ない声、その声が今夜も向こうの竹林を透《とお》してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思えば蒼白い月天がいつもその上にかかる。

 萩原君。
 何と言っても私は君を愛する。そして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新しく生まれて来た二つの相似た霊魂のために祝福し、更に甚深《じんしん》な肉親の交歓に酔う。
 又更に君と室生君との芸術上の熱愛を思うと涙が流れる。君の歓びは室生君の歓びである。そして又私の歓びである。
 この機会を利用して、私は更に君に讃嘆《さんたん》の辞を贈る。
  大正六年一月十日

葛飾の紫烟草舎にて     
北原 白秋  

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