自序

           若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四巻
            をまとめて合本の詩集をつくりし時に

遂《つい》に、新しき詩歌《しいか》の時は来りぬ。
そはうつくしき曙《あけぼの》のごとくなりき。あるものは古《いにしへ》の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。
うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。
伝説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帯びぬ。
明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壮大と衰頽《すいたい》とを照せり。
新しきうたびとの群《むれ》の多くは、たゞ穆実《ぼくじつ》なる青年なりき。その芸術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた偽りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣《こうしん》にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢《わういつ》なる思潮は幾多の青年をして殆《ほとんど》ど寝食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶《はんもん》とは幾多の青年をして狂せしめたるを。
われも拙《つたな》き身を忘れて、この新しきうたびとの声に和しぬ。
詩歌《しいか》は静かなるところにて想《おも》ひ起したる感動なりとかや。げに、わが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
なげきと、わづらひとは、わが歌に残りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に励まされてわれも身と心とを救ひしなり。
誰か旧《ふる》き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。
生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ。
芸術はわが願ひなり。されどわれは芸術を軽く見たりき。むしろわれは芸術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草《ねなしぐさ》四つの巻とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。

   明治三十七年の夏                    藤村


ルビは《》で示した。
底本:「島崎藤村詩集」白凰社(昭和65年)
初出:「藤村詩集」春陽堂(昭和37年)