序文*1

世の中には途方も無い仁《じん》もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途方も無い処が即ち新の新たる極意かも知れん。
定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手当り次第に繰り展げた処が、

  高きより飛び下りるごとき心もて
  この一生を
  終るすべなきか

此ア面白い、ふン此の刹那の心を常住に持することが出来たら、至極ぢや。面白い処に気が着いたものぢや、面白く言ひまはしたものぢや。

  非凡なる人のごとくにふるまへる
  後のさびしさは
  何にかたぐへむ

いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさを一生覚えずに過す人が、所謂当節の成功家ぢや。

  何処やらに沢山の人が争ひて
  鬮《くじ》引くごとし
  われも引きたし

何にしろ大混雑のおしあひへしあひで、鬮引の場に入るだけでも一難儀ぢやのに、やつとの思ひに引いたところで大概は空鬮《からくじ》ぢや。

  何がなしにさびしくなれば
  出てあるく男となりて
  三月にもなれり

  とある日に
  酒をのみたくてならぬごとく
  今日われ切に金を欲りせり

  怒る時
  かならずひとつ鉢を割り
  九百九十九割りて死なまし

  腕拱みて
  このごろ思ふ
  大いなる敵目の前に躍り出でよと

  目の前の菓子皿などを
  かりかりと噛みてみたくなりぬ
  もどかしきかな

  鏡とり
  能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
  泣き飽きし時

  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なむと思ふ

  よごれたる足袋穿く時の
  気味わるき思ひに似たる
  思出もあり

さうぢや、そんなことがある、斯ういう様な想ひは、俺にもある。二三十年もかけはなれた此の著者と此の読者との間にすら共感の感ぢやから、定めし総ての人にもあるのぢやらう。然る処俺等聞及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見てこれぢや、もつと面白い歌が此の集中に満ちて居るに違ひない。そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合点して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛けも無い誰にも承知の出来る歌も亦当節新発明に為つて居たかと、くれぐれも感心仕る。新派といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段、全く拙者のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。

    犬の年の大水後

藪 野 椋 十 

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