藪入

   上

朝浅草を立ちいでゝ
かの深川を望むかな
片影冷《すゞ》しわれは今
こひしき家に帰るなり

籠の雀のけふ一日《ひとひ》
いとまたまはる藪入や
思ふまゝなる吾身こそ
空飛ぶ鳥に似たりけれ

大川《おおかは》端《ばた》を来て見れば
帯は浅黄の染模樣
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か

柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
漁《すなど》り舟の艫《ろ》の音は
静かに波にひゞくかな

白帆をわたる風は来て
鬢《びん》の井筒《ゐづゝ》の香《か》を払ひ
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり

潮《しほ》わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿

   下

その名ばかりの鮨《すし》つけて
やがて一日《ひとひ》は暮れにけり
いとまごひして見かへれば
蚊遣《かやり》に薄き母の影

あゆみは重し愁《うれ》ひつゝ
岸辺を行きて吾《わが》宿《やど》の
今のありさま忍ぶにも
忍ぶにあまる宿世かな

家をこゝろに浮ぶれば
夢も冷たき古簀子《ふるすのこ》
西日悲しき土壁《つちかべ》の
まばら朽ちたる裏住居《ずまひ》

南の廂《ひさし》傾きて
垣に短かき草箒
破《や》れし戸に倚《よ》る夏菊の
人に昔を語り顔

風吹くあした雨の夜半《よは》
すこしは世をも知りそめて
むかしのまゝの身ならねど
かゝる思ひは今ぞ知る

身を世を思ひなげきつゝ
流れに添うてあゆめばや
今の心のさみしさに
似るものもなき眺めかな

夕日さながら画《ゑ》のごとく
岸の柳にうつろひて
汐《しほ》みちくれば水禽《しづとり》の
影ほのかなり隅田川

茶舟《ちやぶね》を下す舟人の
声遠近《をちこち》に聞えけり
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲《ゆふぐも》

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