鳥なき里

鳥なき里の蝙蝠や
宗助《そうすけ》鍬《くは》をかたにかけ
幸助《かうすけ》網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助

黄瓜花さき夕影に
蝉鳴くかなた桑の葉
露にすゞしき山道《やまみち》を
海にうらやむ幸助のゆめ

磯菜《いそな》遠近《をちこち》砂の上に
舟干すかなた夏潮《なつじほ》の
鰺《あじ》藻に響く海の音《ね》を
山にうらやむ宗助のゆめ

かくもかはれば変る世や
幸助鍬をかたにかけ
宗助網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助

霞にうつり霜に暮れ
たちまち過ぎぬ春と秋
のぞみは草の花のごと
砂に埋れて見るよしもなし

さながらそれも一時《ひととき》の
胸の青雲いづこぞや
かへりみすれば跡もなき
宗助のゆめ幸助のゆめ

ふたゝび百合はさきかへり
ふたゝび梅は青みけり
深き緑の樹の蔭を
迷うて帰る宗助幸助

目次に戻る


ルビは《》で示した。
対応できない字は【】で示した。
底本:「島崎藤村全集」筑摩書房(昭和56年)
初出:「落梅集」春陽堂(明治34年)