デクノボー

今日の会議の相手の人は、顔を真っ赤にさせてどうして良いのか分からないようでした。その通りなのです。どうして良いのか分からない、それが本当のところなのです。この街はもう何もかもが分からなくなっていて、一人一人の人が一生懸命仕事をしても、そういったものではどうしようもないくらい顔が真っ赤になってしまうものなのです。
私に今の仕事が向いているのか向いていないのか、その本当のところは分かりません。しかし私の心は元来雑草のようで、絶えず草の音が染みついているのです。このような部屋の中でさも無理やり誰かの言葉を伝えても、それはそれはどうしようもないことなのです。
あの人はひょっとしたら首になってしまうのではないか、そういったことを考えても話してみても、結局心ない仕切り中で出るに出られないものなのです。私の前の人が悪かったとも、私の上の人が悪かったともいえず、また真っ赤になっている前の人が悪いわけでもないのです。もし悪い者があるとすれば、それはただの段ボールだったり、過去の記録だったり、そういった涙すら流さない染みも出来ていないものなのです。
私が願う仕事とは雑草のような仕事で、私の祖父のような人間なのです。誰も継ぐことのない畑の雑草を抜き続けるというそういった仕事なのです。それは一見して工場でひたすら部品を組み合わせるような作業に見えるかもしれませんが、この自然はそんなことは考えずに、ぴーひゃらららぴーひゃららら生まれ続けるのです。
一年とは不思議な物で、去年私の心をとらえて止まなかったデクノボー達が、今日の出来事がなければすっかり思い出せなかったのです。デクノボーとは私がかってにあだ名を付けて呼んでいる物達のことなのですが、秋の田んぼに現れる物です。東北の方では秋の稲刈り終わると、背の高い棒に藁を組み合わせて積んで、藁の服を着た男の人ぐらいの大きさの稲小積(いねこづみ)を作るのです。私はこの人達が影を長くしているのを見たとき、どうしても彼らがデクノボーとしか考えられなくなった、私はその横で日が暮れるまでずっと立っていたのです。
いろいろな公園を歩き続けていても、やっぱりそういったものがそのままの形であるところでないとどうしようもないのでしょうね。本当にどうしようもないのでしょうね。
私にデクノボーの仕事を下さい。私にデクノボーの仕事を下さい。



デクノボー


私の仕事は終わりました
水は抜かれて
稲は刈られて
いがぐり頭になりました


夏には青々と草も茂り
蛙や蝶々が飛び回り
蝉の鳴き声なんかも 染み付き
風が吹く度に 歌い返したものです


とても大きなぐるぐる風や
すずめなんかにもつつかれましたが
つい最近までは皆(みんな)が頭をなで
重たくなった頭を褒めてくれました


こうして終わってみればさびしいものです
私は藁の服と帽子を被り束を背負い
天の下でふられたりほされたりして
会いに来てくれるのはカラスだけになりました


どうしたものかと考えておりましたが
コオロギの愛の音(ね)が聞こえてくるようになると
そんなものも増えてきましたので
皆(みんな)で夕焼け空をながめるようにしています