ある時

友はいま遠い北海道からかへつたばかり
ながながと旅のつかれにねころんだ畳の上で
まだ新らしい印象をかたりはじめた
うまれてはじめて乗つた大きな汽船のこと
それで蒼々した海峡を
名高い波に揺られながら横断したこと
異国的な港々の繁華なこと
薄倖詩人の草深い墓にまうでたこと
トラピスト修道院の屋根がはるかに光つてゐたこと
古戦場で珍らしい閑古鳥をきいたこと
さまざまなことを友は語つた
それから時にと前置をしてしめやかにその言葉を切り
友は一すぢの糸のやうな記憶をたどりはじめた
それはもう黄昏近い頃であつた
と或る田舎の小さな駅で
身なりだけでもそれとしられる貧しい女が
一人の乳呑児を背にくゝりつけ
もひとりの子の手をひいて友の列車にあわただしく駆けこんだ
車中はぎつしり一ぱいだつた
その女はよほどつかれてゐるらしく
自分の席をやつとみつけて背中のこどもを膝におろした
そしてほつといきをついた
友のそばに無理矢理に割込ませられた大きなほうの子ども
それは女の子であつた
汚い着物とみにくい顔面《かほ》と
段々と列車の動揺するにつれ
その動揺にほだされてくる心の弛みにがつくりと
みんなのやうにいつかその子も首を垂れてしまつた
はじめの間は何やかとその子のことがぞくぞくするほど気になつたが
次第に身体《からだ》をまつたく投げ出し
その小さな首を友の胸のあたりに凭《もた》たせかけてなんの不安もなく
すやすやと鼾《いびき》さへはじめたその無邪気さ
友にはそれが可愛ゆくなつてきた
可愛ゆくて可愛ゆくて何ともたまらなくなつてきた
しみじみと
汽車は用捨なくはしり走つた
そしてぱつたり停つた
そこは彼等の下車駅であつた
母にめざまされたその女の子は黒い瞳をぱつちりと開いた
友はそれをみた
それに人間のまことの美をみた
みたと言ふより寧《むし》ろ解したといふべきだ
子どもは立ちあがり
ちらとふりむいてにつこりと而も寂しく
「おぢさん、さよなら」と後にも前にもたつたひとことこれだけ言つた
友はだまつて挨拶した
かなしさがぐつと咽喉までこみ上げたので言葉の道がなくなつたのだと
こんな話を目にでもみえるやうにしながら
もうその眼瞼をぬらしてゐるのだ
ああ、たまらない
ああ、こんなのが消えてうせゆく人間の言葉であるのか

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