相田みつを美術館に出かけて(2)〜書と向き合ってみる〜

(1)相田みつをの言葉に出会ったのはから|

井戸を覗くと

地下一階を奥の突き当たりまで進むと、クリーム色の壁とガラス窓の休憩所が見えてきます。訪れた日は平日の午後でしたが、中は休日の美術館並みに混んでいるようでした。
さっそく美術館に入ると、入口から見える所に円い井戸の形をしたものがあります。
「井戸の中を覗いてみてください」、と受付の方に言われ、井戸の縁に手をあててその中を覗き込むと、下の方から水の流れる音が聞こえてきて、井戸の底には魚が泳ぐ映像が映っています。

「水」の字

そのまま魚の映像を見ていると、次第に水の流れは薄れて白いキャンバスが現れ、そこに音を立てて墨色の筆が走り、相田さんの書による「水」の字が現れました。するとその字も時をおいて消えて、今度は形の違う「水」の書が現れました。そして最後にその字も消えて、その井戸の底はまた元の水の流れに戻っていきました。
その日の天気は雨降りで、裾が濡れるにつれて急ぎ足でここまで来たのですが、その中の水の流れと墨色の書の走りを見ていると、この閉じられた井戸の中がまるで鏡の中の世界に迷い込んだように感じられてきて、心が鮮やかになり世界を見る目が啓かれてくるようです。

書家について

私達が普段書き記している字というもの考えるとを、その書き記した物はその記号としての役割を使っているのであり、その字の書きぶりに着目することはありません。この人は美しい文字を書く、あるいはこの人の字は読めない、という事を感じることはありますが、一文字一文字に刻まれた表現としての形について考えることはありません。
しかし書家というものは、おそらくそこに着目して字を書き記している人達であり、その書き記す一文字一文字は記号ではなく、彫刻や絵画の様に生きている表現を伝えるものなのでしょう。

一文字の「書」を感じて

この井戸は、そういった事を感じさせる上で大変巧みな趣向であると思います。壁に掛けられた画面に文字を浮き出たせるよりも、「覗くという」主体的な行動を取らせることによって、人の志向性を明確な一点に向かわせることが出来ます。
そしてその一字を見つめると、通常の想念に上がってくることのない、その字の太さや繊細さ、柔らかさや激しさ、文字の走るところとその背後との間合い、その文字が表しているものに思いを向けさせてくれます。
特に「水」という字は象形文字であり、三すじになって流れる水の形がそのまま文字になっていますから、その水が激しい嵐のような流れか、穏やかな春の雪解けの流れか、その字の表現から感じられてくるかもしれません。
自然なかにある身近な形を、何か「書」で表してみたくなりますね。
そのような心が啓かれてきますから、この美術館では相田みつをの言葉だけではなく、その書にも親しむ事ができます。

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