雑記

筆の遅さについて

今月は3回に分けて相田みつをさんについて書きましたが、「書」や「悟り」について長々と書いてしまったため、美術館の中にある個々の作品については書くことが出来ませんでした。
というのも、私は感じたことを文章の形にするのが非常に遅いため、時が経ってしまって対応することが出来なくなってしまったからです。私は非常に弱い人間であり、幾つかの事が累積してしまうと感性がまったく働かなくなります。
ですから休日であっても平日の仕事がたまりすぎると、累積しているものに精神が囚われてしまって、周りがまったく見えなくなってしまうのです。
ですから私のような人間から見ると、毎日ブログを更新して記事を書いているような人は神にも等しい業を持っていると感じられます。見習おうと思ってはいるのですが、残念ながら私はそういう性質の人間ではないらしく、文章を書いていけば書いていくほど形にするのが遅くなるばかりです。
筆が遅いこと自体は悪いと思っていないのですが、形にしようと思っていながら時間が経つことにより、後から新しいものが積み重なって、そしてそれが支えきれなくなってしまって、全てを投げ出してしまう事が問題なのです。
今回は、悟りについて色々と触れてしまいましたが、私こそが囚われて人間そのものなのです。常日頃からわだかまりを捨て、心を絶えず見通せる底の清らかな状態に置き、花開く時、実結ぶ時をわきまえ、自分の力量を把握して取捨選択していかなければなりません。

「逢」という字について

相田みつをさんの美術館で行われていた企画展は、「『めぐりあい』の世界」というものでした。そしてその作品の一つに、「逢」という文字の書が飾られていました。
「人がであう」と言うときの、「あう」には、「会う」という字と「逢う」という字があります。
そのうち相田さんが「書」に書いた「逢」という字は、白川静さんの「常用字解」によると、
「逢」の字の「ほう」の部分(しんにょうにのっている方の文字)は、「ち」(上の部分)と「ほう」(下の部分)を組み合わせた形で、神が降り、憑(よ)りつく木をいい、これに「しんにょう」が加わり、「神異なものにあう」ということを表すそうです。
人と人が出会う、その中に、今までの自分の生き方を180度変えてしまうような「出逢い」、あるいは、自分はこの人に逢うべくして逢ったのだと思えるような「出逢い」、そういった人間以上のものによって編み込まれた不思議な出逢いの機会が生きていく上ではあるのかしれません。
残念ながら私はそういう出逢いしたことはありませんが、それはまだめぐり逢っていないからかもしれません。あるいは私の心が濁っているため、「出会」っていても「出逢」わなかったからかもしれません。
清らかな湖と濁った湖、清らかであるためには、心を静めてその中で沈む一つ一つの粒子を底の一滴まで追い、そのつぶやきがかつてもっていた小川のせせらぎに耳を傾ける必要があります。
相田さんとは逆の方向になりますが、私は心の静けさと感情の穏やかさを大切に出逢いを求めていきたいと思います。