相田みつを美術館に出かけて(3)〜悟りについて〜

(2)書と向き合ってみるから|

相田さんの信教は

いくつかの小分けにされた展示室を過ぎて、相田さん愛用の道具などが展示されている部屋に進むと、相田さんの話を録音したテープが流されている場所があります。そしてその話の中の一つに、悟りをテーマとしたところがありました。
私はいくつかの相田さんの書に触れ、そしてその作品を読んでいますが、そこからは悟りであるとか色即是空であるとか、そういった仏教的な思想を喫緊に感じたことはありませんでした。
しかし相田さんは、曹洞宗仏教徒であり、仏教徒向けの会報などに文章を載せるなどしており、また、道元の「正法眼蔵」を生涯の愛読書として読み続けるほどに、信仰の篤い人だったようです。
そこには、角がささくれ、多くの付箋が貼られ、線が引かれ、メモが挟まっている、相田さんが生前持っていた「正法眼蔵」の本が展示されていました。

悟りについて

正法眼蔵」とは、曹洞宗の開祖である鎌倉時代道元というお坊さんが書いた本で、生とは何か、死とは何か、座禅とは何か、悟りとは何かと言うことについて、道元が識った先人達の話及び仏法を語ったものです。
私がいくらか読んだその中身の、悟りについて、心について、人のあり方についての箇所では

自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ、諸々の現象の中に自我の在りようを認識するのが悟りである。

心とは、何であるか。心とは心の中にあるのか、心の外にあるものとするのか。心は心の外から来るものとするのか、心は心から去るものとするのか。生きている時に心は増えるか、増えないか。死に際して心は何かを失うのか、何も失わないのか。こうした生死と心および生死とは何かを考えるならば、心とは何処に措定するのか。このように心とはただ想念であり作用である。世界が、山河大地日月星辰がともになければ意識も情念の作用も欲しないのである。だから人の一念一念は一つ一つの山河大地というほかないのだ。

何事もそのまま体に受け取り、行いをその風流に任せよ。

と語られており、悟りとは、自我による一つ一つの認識ではなくて、その認識や感情を生み出していく人間のあり方を達観して見通すことにより、「何事もそのまま体に受け取り、行いをその風流に任せよ。」という状態に至ることだと語られています。

不悟

相田さんは、生涯を通じて「正法眼蔵」を読んで、上述のような言葉をどのようにとらえて感じたのでしょうか。(断っておきますが、ここからはあくまでも私の考えにすぎませんので、そのつもりでお願いします。)
残念ながら相田さんの一つ一つの作品は、何もかも捨て去り、わだかまりを無くした覚者が話す言葉ではなく、むしろ迷いの状態から語られた言葉と言えます。そして相田さん自身、「私には悟りということは難しい、無理だ」「色気もあり、欲くもあり、とても悟ることは出来ない。」と、悟りには至れないと語ってもいます。
こういった事については人によって意見が異なるかも知れませんが、相田さんの作品には、西洋的な自我の強さが作品の根底に流れていて、自分の行動は自分が決めるというものであり、あるがままを受け入れ、自然に従い生きていくという態度ではありません。

人間について話をするとき

ではそういった事を、相田さんは見つめた上で、日々「正法眼蔵」を読み返しながら、悟りという重要な問題にどのように関わったのでしょうか。
相田さんの作品の一つに、「生きていて」というタイトルの作品があります。

生きていてたのしいと思うことの
ひとつ
それは人間が人間に
逢って人間に
ついて話を
するときです

みなさんはこの言葉を聞いてどういう印象を受けるでしょうか。
「たのしいと思うこと」について、「人間が人間に逢うこと」は分かりますが、「人間について話をする」という事に、私は少し違和感を感じるように思います。
人と人が出会って、何か楽しいことがある、それは将棋であったり、料理を作ったり、花を摘みにいったり、野菜を収穫したり、そして何かについて話をしたりする事もあるでしょう。しかし、その話の内容として、誰かのうわさ話ではなく、「人間について話をする」、「人間自身とは何かについて話をする」と言うことが楽しいというのは、なかなか言えないものです。

在りようが語られている

しかしこの「人間について話をする」というのは、「正法眼蔵」の所で上述した、「自我の在りようを認識する」ということに通じることであり、生があり、死があり、迷いがあり、悟りがあるという状態の中で、相田さんは、「生がある」という事に自身の重心をおき、「いのちの尊さ」を常に見つめて作品を書き出していった人でした。
私達が今相田さんの作品の総体を読んで感じられるのは、相田さんの作品には人間の生死を見つめた一人の人間のあり方が書き出されているという事であり、相田さん自身が自然な形のままで、人間について話をすることを行っていった結果、私達は人間の在りようについて、相田さんの作品から学び考えることが出来るということです。

人に絶えず読まれるのは

相田さんの言葉の一つ一つは、トイレにいる時に読み終わってしまうような短いものですが、相田さんの言葉には人間のあり方が刻まれているのであり、生について・死についてという人が考えざるを得ない根本的な問題に向き合うとき、相田さんの総体としての言葉が顕わに自分の身に近づいてきて、相田さんの「書」の前に立ち止まる様になるのだと思います。
相田みつをさんの言葉が多くの人に読まれていると言うことは、生があり、死があり、迷いがあり、悟りがあるということが日常の中で自然に感じられなくなった時代にあって、「生死」の問題、あるいは「迷い」の問題が喫緊に感じられてきた人達にとって、現代の私達が向き合うことの出来る身近な糸口なのかもしれません。
時代と共に形は変わっても、人間が人間である限り本質的に向き合うべき問題はあまり変わらないものです。相田さんの作品に自分自身を見るならば、相田さんが愛読書とした「正法眼蔵」を読んでみるのもいいかもしれません。