詩のpickup(生い立ち・人生について)

山村暮鳥さんの詩の中から、生い立ち・人生について語った詩を数点選びました。



ふるさと



枯木が四五本たつてゐるそのあひだから
おゝ静かなうつくしい湖がみえる
湖をとりまいてゐる山山や木木はひるなかでも黒い
まるでこしらへたもののやうにみえる
あまりにさびしい
ほそぼそと山腹の道はきえさうで
人つ子独りあるいてはゐない
けれどそこにも一けんの寒さうな小舎があり
屋根のけむだしから
糸のやうなひとすぢのけむりが
あをぞらたかくたちのぼつてゐる
なんといふ記憶だらう
これがあの大きな山のふところで
あかんぼの瞳のやうにすんでゐる湖だ
冬も深く
氷切りがはじまると
自分達の父もよくそこへでかけた
そして熊のやうにひとびとにまじつて働いた
父はいまでも鉄のやうに強い
おとうとよ
峠の茶店のばあさんはどうしてゐる
谷間でないてゐる閑古鳥を
わが子か孫かでもあるやうに可愛がつて
自慢してゐたばあさん
あのばあさん
まだ生きてゐるか

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自序



 自分は人間である。故に此等の詩はいふまでもなく人間の詩である。
 自分は人間の力を信ずる。力! 此の信念の表現されたものが此等の詩である。
 自分は此等の詩の作者である。作者として此等の詩のことをおもへば其処には憂鬱にして意地悪き暴風雨ののちに起るあの高いさつぱりした黎明の蒼天をあふぐにひとしい感覚が烈しくも鋭く研がれる。実《まこと》にそれこそ生みのくるしみであつた。  生みのくるしみ! 此のくるしみから自分は新たに日に日にうまれる。伸び出る。此のくるしみは其《その》上、強い大胆なプロメトイスの力を自分に指ざした。遠い世界のはてまで手をさしのべて創世以来、人間といふ人間の辛棒《しんぼう》づよくも探し求めてゐたものは何であつたか。自分はそれを知つた。おお此のよろこび! 自分はそれをひつ掴んだ。どんなことがあつても、もうはなしてはやるものか。

 苦痛は美である! そして力は! 力の子どもばかりが芸術で、詩である。

 或る日、自分は癇癪《かんしやく》的発作のために打倒された。それは一昨々年の初冬落葉の頃であつた。而《しか》もその翌朝の自分はおそろしい一種の静穏を肉心にみながら既に、はや以前の自分ではなかつた。
 それほど自分の苦悶は、精神上の残酷な事件であつた。
 此等の詩は事後つい最近、突然喀血して病床に横はつたまでの足掛け三ヶ年間に渡る自分のまづしい収穫で且《か》つ蘇生した人間の霊魂のさけびである。
 一茎の草といへども大地に根ざしてゐる。そしてものの凡《あら》ゆる愛と匂とに真実をこめた自分の詩は広く豊富にしてかぎりなき探さにある自然をその背景乃至内容とする。そこからでてきたのだ、例へばおやへびの臍を噛みやぶつて自《みづか》ら生れてきたのだと自分の友のいふその蝮《まむし》の子のやうに。
 自分は言明しておく。信仰の上よりいへば自分は一個の基督者《キリステアン》である。而《しか》も世の所謂《いわゆる》それらの人々とはそれが仏陀の帰依者に対してよりどんなに異つてゐるか。それはそれとして此等の詩の中には神神とか人間の神とかいふ字句がある。神神と言ふ場合にはそれは神学上の神神ではなく、単に古代ギリシヤあたりの神話を漠然とおもつて貰はう。また人間の神とあればそれは無形の神が礼拝の対象として人格化《パアソニフワイ》されるやうに、これは正にその反対である。其他これに準ず。

 最後に詩論家及び読者よ。
 此の人間はねらつてゐる。光明思慕の一念がねらつてゐるのだ。ひつつかんだとおもつたときは概念を手にする。これからだ。これからだ。何時もこれからだとは言へ、理智のつぎはぎ、感情のこねくり、そんなものには目もくれないのだ。捕鯨者は鰯やひらめにどう値するか。
 ……何といふ「生」の厳粛な発生であらう。此の発生に赫耀《かがやき》あれ!

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著者として――



 こゝにあつめたこれらの詩はすべて人間畜生の自然な赤裸裸なものである。それ以外のなんでもない。これらの詩にいくらかでも価値があるなら、それでよし、また無いとてもそれまでだ。
 自分が詩人としての道をたどりはじめたのは、ふりかへつて見るともうずゐぶん遠い彼方の日のことだ。そのをりをりの自分が想ひだされる。耽美的で熱狂的で、あるなにものかにつよくつよくひきつけられてゐた自分、それがなにものだか解らない。自分はそれに惑溺してゐた。それは美のそして中心のない世界であつた。それから自分はいつしか宗教的の侏儒《しゆじゆ》であり、中古の錬金士などのあやしい神秘に憑かれてゐた。その深刻さにおいてはすなはち象徴そのものであつたやうな自分。厳粛もそこまでゆくと遊びである。それにおそれおのゝいた自分。そして一切をかなぐりすてゝ、霊魂《たましひ》を自然にむけた。人間も自然もみんなそこでは新しかつた。かうして陶酔とものまにあとの轡《くつわ》を離れて、自分はさびしくはあつたが一本の木のやうにゆたかなる日光をあびた。それも一瞬間、運命はすぐかけよつて自分をむごたらしくも現実苦痛の谷底に蹴落したのだ
 その谷底でかゝれたのがこれらの詩章である。これらの一字一句はすべて文字通りに血みどろの中からでてきた。自分は血を吐きながら、而も詩をかくことをやめなかつた。それがこれらの詩章である。
 人間畜生の赤裸々なる! こゝまでくるには実に一朝一夕のことではなかつた。
 真実であれ。真実であることを何よりもまづ求めろ。
 暮鳥、汝のかく詩は拙《つたな》い、だがそれでい。
 けつして技巧をもてあそんではくれるな。油壷からひきだしたやうなものをかいてはならない。
 ジヨツトオの画、ミケランゼロの彫刻、あの拙さを汝はぐわんねんしてゐるのではないか。おゝ、何といふ偉大な拙さ!
 暮鳥はそれをめがけてゐる。
 あゝミケランゼロ! 人間が達しえたその最高絶頂に立つてゐる彼の製作、みよその頭に角のはへてゐるモオゼのまへではナポレオンも豆粒のやうだ。
 此の偉大はどこからきたか。自分等はそのかげにかのドナテロを見遁してはならない。真実そのものゝやうなドナテロ
          ――茨城県磯浜にて――

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友に書きおくる



友よ
かうして海のやうな処に押しだされてしまつた自分は
その海のやうなところを
自分のところとするほかない
どんなにそこがひどく濁つてゐようとも
どんなにまた暴々と吼えたけつけてゐようとも

友よ
かうして広々とした処に押しだされてしまつた自分だ
いまさらあの山奥のふるさと
その純らかなせせらぎであつた谷川のむかしをおもひだしたからとて
それはただ自分を寂しくするばかりだ

見てくれたまへ
いまはもうすつかり
こんなにもひどく打砕かれ
また、汚されてしまつてゐる自分だ
だが、いまさらそれをどうしよう
だが、また自分はおもふ
いま海はいかにも濁つてゐる
濁つてゐるがそのなかにも
谷川のあの清澄さはながれこんでゐるのだと
また
山のやうに波立つときもあるけれど凪ぎればそれこそ
せせらぎのさざめきほどの音もなく静かになると

そうだ、友よ
雨がふればにごるまで
風がふけば波立つまで
ああ、それでいい
すべてはそれでいいのだと
自分はいま、いまはじめてそれをおもふ

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 人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。
 そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。

 ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。
 その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。

 むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて実をそこなひ、実をこのみて風流をわする。
 これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。
 また言ふ。――花を愛すべし。実なほ食ひつべし。
 なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い実在自然の声があらうか。  自分にも此の頃になつて、ようやく、そうしたことが泌々と思ひあはされるやうになつた。齢の効かもしれない。

 芸術のない生活はたへられない。生活のない芸術もたへられない。芸術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰《えら》ばせずにはおかない。而《しか》も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。
 これまでの自分には、そこに大きな悩みがあつた。
 それならなんぢのいまはと問はれたら、どうしよう、かの道元の谷声山色はあまりにも幽遠である。
 かうしてそれを食べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌礼拝するだけの自分である。
 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。
 だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。

 詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言《しんげん》である。けれど、それだけのことである。
 善い詩人は詩をかざらず。
 まことの農夫は田に溺れず。

 これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
 なんといはう。実に、田の田である。詩の詩である。

 ――芸術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの芸術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や真実の行為に相対するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが芸術をして真に芸術たらしめるものである。
 芸術における気稟《きひん》の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る叙述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何かの上に関はる。
 その妖怪を逃がすな。
 それは、だが長い芸術道の体験においてでなくては捕へられないものらしい。

 何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。
          茨城県イソハマにて
                山村暮鳥

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