梢の巣にて(3)〜高原の風景より〜

梢の巣にて(2)から

梢には小鳥の巣がある

鳥はなぜ、あのような、揺れの激しい木の上に巣を作るのでしょうか。
私が見ている間、鳥は姿を現しませんでしたが、それはその巣の鳥が本日留守なのか、それともその巣が今現在使われていないのか、あるいは私が繁く見つめていたために鳥は姿を現さなかったのか、そのいずれにしても、私は鳥について語るのには知識が足りないようです。

なにを言ふのだ
どんな風にも落ちないで
梢には小鳥の巣がある
それでいい
いいではないか

この詩は、山村暮鳥さんの「梢には小鳥の巣がある」(詩集「風は草木にささやいた」より)という詩です。風に揺られている鳥の巣を見ていると、そういう詩が自然と心の内に伝わってきます。
今まで私はこの詩について、何の特別な意気も感じずに、鳥は木の上に巣を作る、人は土の上に巣を作る、モグラは土の中に巣を作る、それはそれぞれ自然なことで、あるがままに従って生きているすがたを表しているだと、そのように考えていました。
しかし今眼の前で、こうやって風に吹かれている鳥の巣を見ていると、私はあまりに厳然すぎる自然という翻弄に対して、あらがうことのできない身魂をさらしている野鳥の身に、自らの過去の幾つかを感じざるをえません。
この詩が書かれた時期は、山村暮鳥さんが体を害し始めた時期であり、畑で野菜を作り始めた時期です。この時期の詩の中には、鳥や植物、畑の作物などが多様に登場しています。それは、自分がおかれた状況から、人間が苦しみの中にあることを考え、人間の生きていく姿として、厳しい環境にあっても力強さを保持している動植物の営みの中に、その共感と理想を見いだしていったからです。
今、目の前で揺られている「鳥の巣」−−宿りとなる大木すら呻り、その身すらも風に吹かれている−−こういう自然の営みの中にこそ、生命の力強さがかいま見られ、そしてその大地に立つ人間に対して、削剥(さくはく)した強靱さが投影されるのかもしません。
私は、その散策の帰り道、切り立った低木の一つにネコヤナギを見つけました。その枝先は白くおぼろげで、私はその日が寒かったために、滴が凍っているのかと思ってしまいましたが、ネコヤナギの枝の先は、フサフサした白いうぶ毛で覆われています。
風になびいた草は、とてもくすぐったそうに身をよじりますが、草だけでなく木も、たまには人をくすぐったがるのかもしれません。こういうところから、不思議が生まれると、そう思うのは私だけでしょうか。

(2006.3.19 長野の高原にて、風に揺られる鳥の姿を見る。2006.3.20 執筆-2006.4.18 推敲)