故田中恭吉氏の芸術に就いて

 雑誌「月映」を通じて、私が恭吉氏の芸術を始めて知ったのは、今から二年ほど以前のことである。当時、私があのすばらしい芸術に接して、どんなに驚異と嘆美の瞳をみはったかと言うことは、殊更に言うまでもないことであろう。実に私は自分の求めている心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によって一層はっきりと凝視することが出来たのである。
 その頃、私は自分の詩集の装丁や挿画を依頼する人を物色していた際なので、この新しい知己を得た喜びは一層深甚《しんじん》なものであった。まもなく恩地孝氏の紹介によって私と恭吉氏とは、互いにその郷里から書簡を往復するような間柄になった。
 幸いにも、恭吉氏は以前から私の詩を愛読していられたので、二人の友情はたちまち深い所まで進んで行った。当時、重患の病床中にあった恭吉氏は、私の詩集の計画をきいて自分のことのように喜んでくれた。そしてその装丁と挿画のために、彼のすべての「生命の残部」を傾注することを約束された。
 とはいえ、それ以来、氏からの消息はばったり絶えてしまった。そして恩地氏からの手紙では「いよいよ恭吉の最後も近づいた」ということであった。それから暫《しばら》くして或日突然、恩地氏から一封の書留小包が届いた。それは恭吉氏の私のために傾注しつくされた「生命の残部」であった。床中で握りつめながら死んだという傷ましい形見の遺作であった。私はきびしい心でそれを押し頂いた。《この詩集に挿入した金泥の口絵と、赤地に赤いインキで薄く描いた線画がその形見である。この赤い絵は、劇薬を包む赤い四角の紙に赤いインキで描かれてあった。恐らくは未完成の下図であったろう。非常に緊張した鋭いものである。その他の数葉は氏の遺作集から恩地君が選抜した。》
 恭吉氏は自分の芸術を称して、自ら「傷める芽」と言っていた。世にも稀有な鬼才をもちながら、不幸にして現代に認められることが出来ないで、あまつさえその若い生涯のほとんど全部を不治の病床生活に終って寂しく夭死《ようし》して仕舞った無名の天才画家のことを考えると、私は胸に釘をうたれたような苦しい痛みをかんじる。
 思うに恭吉氏の芸術は「傷める生命《いのち》」そのもののやるせない絶叫であった。実に氏の芸術は「語る」というのではなくして、ほとんど「絶叫」に近いほど張りつめた生命の苦喚の声であった。私は日本人の手に成ったあらゆる芸術の中で、氏の芸術ほど真に生命的な、恐ろしい真実性にふれたものを、他に決して見たことはない。
 恭吉氏の病床生活を通じて、彼の生命を悩ましたものは、その異常なる性欲の発作と、死に面接する絶えまなき恐怖であった。
 なかんずく、その性欲は、ああした病気に特有な一種の恐ろしい熱病的執拗《しつよう》をもって、絶えずこの不幸な青年を苦しめたものである。恭吉氏の芸術に接した人は、そのありとあらゆる線が、無気味にもことごとく「性欲の嘆き」を語つている事に気がつくであろう。それらの異常なる絵画は、見る人にとっては真に戦慄《せんりつ》すべきものである。
「押さえても押さえても押さえきれない性欲の発作」それはむざむざと彼の若い生命を喰ひつめた悪魔の手であった。しかも身動きも出来ないような重病人にとって、こうした性欲の発作が何になろうぞ。彼の芸術では、すべての線がこの「対象の得られない性欲」の悲しみを訴えている。そこには気味の悪いほど深刻な音楽と祈祷とがある。
 襲いくる性欲の発作のまえに、彼はいつも瞳を閉じて低く歌った。

こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

 何といふ善良な、至純な心根をもった人であろう。だれかこのいじらしい感傷の声をきいて涙を流さずにいられよう。
 一方、こうした肉体の苦悩に呪われながら、一方に彼はまた、眼のあたり死に面接する絶えまなき恐怖に襲われていた。彼はどんなに死を恐れていたか解らない。「とても取り返すことの出来ない生」を取り返そうとして、墓場の下から身を起こそうとして無益に焦心する、悲しいたましいのすすりなきのようなものが、彼の不思議の芸術の一面であった。そこには深い深い絶望の嗟嘆《さたん》と、人間の心のどん底からにじみ出た恐ろしい深刻なセンチメンタリズムとがある。
 しかしこれらのことは、私がここに拙悪《せつあく》な文章で紹介するまでもないことである。見る人が、彼の芸術を見さえすれば、何もかも全感的に解ることである。すべて芸術をみるに、その形状や事実の概念を離れて、直接その内部生命であるリズムにまで触感することの出来る人にとっては、一切の解説や紹介は不要なものにすぎないから。
 要するに、田中恭吉氏の芸術は「異常な性欲のなやみ」と「死に面接する恐怖」との感傷的交錯である。
 もちろん、私は絵画の方面では、全く知識のない素人であるから、専門的の立場から観照的に氏の芸術の優劣を批判することは出来ない。ただ私の限りなく氏を愛敬してその夭折を傷むゆえんは、もちろん、氏の態度や思想や趣味性に私と共鳴する所の多かったにもよるが、それよりも更に大切なことは、氏の芸術が真に恐ろしい人間の生命そのものに根ざした絶叫であったと言うことである。そしてこうした第一義的の貴重な創作を見ることは、現代の日本においては、極めて極めて特異な現象であるということである。

萩原朔太郎  

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ルビは《》で示した。
傍点は太字で示した。
詩の旧字の一部は現代表記になおした。
序文・跋文についての旧字旧仮名は現代読みになおした。
底本:「詩集 月に吠える」角川文庫(昭和44年)
初出:「月に吠える」感情詩社・白日社共版(大正6年2月15日)