挿画附言

 萩原君の詩はおおよそ独特なものだ。その独特さに共通した心緒を持つ故田中恭吉がその挿画を完成しないで逝いたのは遺憾なことだ。ただその画稿が残っていたことがせめてもの幸いでした。彼の最後の手紙に
 「私はとうてい筆をとれない私の熱四十度を今二三度出れば私の脉百四十を、いま二三十出れば私は亡くなる。私はいますべてをすてて健康を欲している。最初私は氏の詩歌の挿画に百枚の予稿をつくりその中から二十――三十の絵を選んで美しいものにしたいと思った。そして《不明》上な勢いで着手し稿画五葉をつくりしのち臥床した。」――一九一五年八月、その死後、彼の従弟の厚意によって私の手許に集まったのが、この集の包紙の表裏にかきつけた十三枚の画稿と、口絵の金色の絵であった。外にどれ程あったか分からない。十三枚の画でさえ、心なき消毒人によって害はれ浸みほけている。前者は赤い薬紙に赤いインキで書かれ、後者は黒い羅紗紙に金色のインキでかかれている。
 これらの絵は彼の死ぬ三月まえに執筆せられ彼の遺したものの最も後のものです。一九一五年七月。両種とも製版複製に困難なものであるだけ画題が損じた。遺憾とする。すべて画題はない。装丁についても、彼の構想を見るべき草稿があるけれど、それは依ることの出来ない程の草稿なので止むなくそれから適わしいものを取り出でて、心持を移して私が作った。
 挿画については彼はこういっている。「他人の詩集に挿画するのは重大だと思ふ。だから私がもしそれをやる場合にはむしろ原詩に執しないわがままな画を挿みたいと思ふ。」 しかしもっぱら、他から、私が見るに彼の資性と萩原君の資性との類似ということよりも、いみじい交通からなる、それは不識の美しい人生の共感だが、倍加された緊密な美がある。むろん恭吉自身のものであるが又同時に彼一個のものでもない。この病弱な、繊細な、又死に対しての生の執着の明るいそして暗い世界の存在に呼吸した生息がこれらの一線にも浸み出ている。一九一四年七月。
 「死人とあとに残れるもの」及び「冬の夕」は共に一九一四年十二月、彼が病苦から軽くせられていた頃、その「死」の体覚及び「発病の回想」から生まれた心境と見るべく前者は画稿では鉛筆のあとを止めている。
 「悔恨」及び「懈怠」は、翌年二月、書きためた画稿をまとめて集とした「心原幽趣」のうちから抜いた。その序詞。
  「これ痛き感謝のこころなり。なみだにぬれしほほゑみなり。おもへばきのふ死なむとしてあやふくも生きながらへたる身かな。――略――しひたげられ、さひなまれつつ、いかばかり生きのちからのいみじきかを ためさむねがひなり。」
 「悔恨」は過ぎし日のあやかしのいのちをかえりみて。「懈怠」は病み疲れた肉心の嫌忌と、又ある愛情と又腐れ果つべき肉体と。それらの心境を示して美しく。
 仮に名づけて「こもるみのむし」とするものはおそらく同年二月――三月にかかれたものであろう。仕上がった画ではないけれど、こもる病体と、外界の光輝の痛さ鋭さが美しくかかれている。
 扉にしたものは小さいアイボリ紙にかいたもので詩集空にさくエーテルの花などと横にかいてあるのをとって画題とした、この世は光《まぶ》しい。一九一五年上半期。
 包紙に用いた「夜の花」は彼自身、もしも詩集でも出すことがあれば表紙にするのだといったもので、いま、採りたてのこの詩集に用いた。一九一五年一月、発病後小康を得て東京市外池袋に起臥した頃かいたもので、ワットマン紙に丹念にかかれてある。印刷で止むなく画を損じたけれど彼の繊細な青麗な情趣が籠められている。
 私の挿画については別にいうべくない、すべてこの集について版を刻ったもの。
 最後に、この集が三者の心緒に快く交通して成ったことの記銘を残しておく。

一九一六年十二月 恩地孝四郎  

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