梭の音の捲(政子の歌)

さにずらひ機《はた》ながせる雲《くも》の影も
夕暗にかくれ行きぬ。わがのぞみも
深黒《ふかくろ》み波しづまる淵《ふち》の底に
泥《ひぢ》の如また浮きこずほろび行きぬ。

涙川つきざる水澄《す》みわしれど、
往きにしは世のとこしへ手にかへらず。
人は云ふ、女《め》のうらみを重き石と
胸にして水底《みぞこ》踏《ふ》める男《を》の子《こ》ありと。

枯蘆《かれあし》のそよぐ歌に、葉のことごと、
我《あ》をうらみ、たえだえなす声ぞこもれ。
見をろせば、暗這《は》ふ波ほのに透《す》きて
我《あ》をさそふ不知界《みしらぬよ》のさまも見ゆる。

真袖《まそで》たち、身を浄めて長年月《ながとしつき》、
祈りぬる我《あ》が涙の猶足らでか、
狂ほしや、好《よ》きに導《ひ》けと頼《たの》みかけし
一条《ひとすぢ》の運命《さだめ》の糸《いと》、いま断《た》たれつ。

来《こ》ずあれと待《ま》ちつる日ぞ早や来《きた》りぬ。
かねてより捧げし身、天《あめ》のみちに
美霊《うまだま》のあと追はむはやすかれども、
いと痛き世のおもひ出また泣かるる。

石戸《いはど》なす絆累《ほだし》かたき牢舎《ひとや》にして
とらはれの女《め》のいのち、そよ、古井《ふるゐ》に
あたたかき光知らず沈む黄金《こがね》、
かがやきも栄《さか》えも、とく錆《さび》の喰《は》みき。

鹿《しか》聞《き》くと人に供《ぐ》せし湯《ゆ》の沢路《さはみち》
秋摺《あきず》りの錦もゆるひと枝《えだ》をば
うち手折《たを》り我《あ》がかざしにさし添へつつ、
笑《ゑ》ませしも昨日《きのふ》ならず、ああ古事《ふるごと》。

半蔀《はじとみ》の明《あか》りひける狭庭《さには》の窓、
糸の目を行き交《か》ひする梭の音にも、
いひ知らず、幻湧き、胸せまりて、
うとき手は愁ひの影添ふに痩《や》せぬ。

ほだし、(ああ魔が業《わざ》なれ。)眼《め》を鋭《するど》く
みはり居て、我《あ》が小胸《をむね》は萎《しな》え果てき。
その響き、心を裂《さ》く梭をとりて
あてもなく泣き祈れる我《あ》は愚かや

心の目《め》内面《うちも》にのみひらける身は、
霊鳥《たまどり》の隠れ家《が》なる夢の国に
安き夜を眠りもせず、醒めつづけて、
気の阻《はば》む重羽搏《おもはうち》に血《ち》は氷《こほ》りぬ。

錦木を戸にたたすと千夜《ちよ》運びし
我《あ》が君の歩ます音夜々《よゝ》にききつ。
その日数《ひかず》かさみ行くを此いのちの
極《きは》み知る暦《こよみ》ぞとは知らざりけれ。

恋ひつつも人のうらみ生矢《いくや》なして
雨とふる運命《さだめ》の路など崢《こゞ》しき。
なげかじとすれど、あはれ宿世《すぐせ》せまく
み年《とせ》をか辿《たど》り来しに早や涯《はて》なる。

瑞風《みづかぜ》の香り吹ける木蔭《こかげ》の夢、
黒霧《くろぎり》の夢と変《かは》り、そも滅びぬ。
絶えせざる思出にぞ解《と》き知るなる
終《つひ》の世の光、今か我《あ》がいのちよ。

玉鬘《たまかづら》かざりもせし緑《みどり》の髪
切《き》りほどき、祈《いの》り、淵《ふち》に投げ入るれば、
ひろごりて、黒綾《くろあや》なす波のおもて、
声もなく、夜の大空風もきえぬ。

枯藻《かれも》なす我が髪いま沈み入りぬ。──
さては女《め》のうらみ生《い》きて、とはの床に
夫《せ》が胸をい捲《ま》かむとや、罪深くも。──
青火する死の吐息ぞここに通ふ。

ひとつ星《ぼし》目もうるみて淡《あは》く照るは、
我《あ》を待つと浩蕩《おほはて》の旅さぶしむ夫《せ》か。
愛の宮天《あめ》の花の香りたえぬ
苑《その》ならで奇縁《くしゑにし》を祝《ほ》ぐ世はなし。

いざ行かむ、(君しなくば、何のいのち。)
悵《いた》み充《み》つ世の殻《から》をば高く脱《ぬ》けて、
安息《やすらぎ》に、天台《あまうてな》に、さらばさらば、
我《あ》が夫《せ》在《ま》す花の床にしたひ行かむ。
  (甲辰の年一月十六、十七、十八日稿。この詩もと前後六章、二人の
  死後政子の父の述懐と、葬りの日の歌と、天上のめぐり合ひの歌とを
  添ふべかりしが、筆を措きしよりこゝ一歳、興会再び捉へ難きがまゝ
  に、乍遺憾前記三章のみをこの集に輯む。)

目次に戻る