しろばんば(4) 〜しろばんば〜

しろばんば(3)〜湯道〜から|

しろばんば

私は自分の足の深いところつけて歩くうちに、石畳の道が右側に深く折れ曲がる角に差し掛りました。するとそこでは、今まで左手を薄く遮っていた針葉樹の連なりが途切れて視界が放たれ、私の目の先に、薄暗い煙を宿した温泉街の姿が現れました。

街は、私の立つ崖の下の小さな畑から先に広がっていて、そこに扇状に古びた屋根を重ねながら、山のすぐ前まで続いています。そしてその山はというと、杉の木に覆われて色深く立ち上がりながら、周り山と重なり合って、この山里を囲んでいたのです。

もう私には、後ろにある山も、重なり合う山も、どれもみな子供の描いた絵のようにまあるく感じられ、こうなってくると何もかもがそうであるように、すべてが程よい具合になってくるのです。私の目には、夕暮れの中で、この温泉街が、こじんまりと浮かび上がっていました。

ちょうどその時、私の視界の上端の方を小さな点が横切りました。もしそれがその一瞬だけだったなら、私は気付かなかったかもしれません。しかしそれは、それから少し間をおいて再び私の斜め前を通り過ぎたのです。それは、蚊よりも小さい白い虫でした。羽が白いから白く見えるのだと思いますが、白い虫が飛んでいたのです。

しろばんば」と、私は思いました。「夕方が来るからしろばんばが出てくるのか、しろばんばが現れて来るので夕方になるのか」、これが「しろばんば」だと、私は夕暮れ空に「しろばんば」を呼びました。

私が昨晩その小説を読んでいなかったとしたら、私が風呂上がりにこの湯道を歩いていなかったとしたら、私はこの時間に温泉街を通り過ぎていたとしてもこの虫に気付くことはできなかったでしょう。私はこの時になってやっと、この旅に出てよかったと思ったのです。ここにきてやっと、私の私の思い出を作ることができたと、旅の思い出とはこういうことなのだと、そう心に思ったのです。

(2007.2.10 伊豆にて、2007.2.11〜3.24記述)

書籍

伊豆の踊子 (新潮文庫)

伊豆の踊子 (新潮文庫)

しろばんば (新潮文庫)

しろばんば (新潮文庫)