萩原朔太郎について

  • 萩原さんの学生時代の経歴を見ると、入学したり退学したりを繰り返し、病気のためとはいえ不思議な学歴である。もちろん明治時代と今では大学の位置づけが異なり、誰でも入れるものではなく、よほど頭がよく、その上経済的に恵まれていなければ入れない時代であろう。現在このようなことをしていれば、家からの仕送りは望めないどころか、音信普通になるのが落ちではないか。実際、当時でも地元で変わり者として見られていたようである。
  • 入院して手術なども体験した私自身の体験を考え直してみると、酷く病気を患っているときや、手術をする前や後の寝たきりの状態の時には、何か自分の置かれている宿命的なものを感じ、自分はなぜこのような病気を負っているのかと自問自答を繰り返す日々を送っていたものである。私の場合は、死につながるようなものではなく、しかしずっと負っていかなければいけないような病気であるが、何かこう 自分の周りに絶えず暗い雲のような影のようなものが重たくのしかかり、朝の日をみるのが非常に憂鬱である時が周期的にやってくる。その様な状態の時に萩原さんの詩に触れ、まさに月に吠えるように朗読をしたものである。もちろん今でもする。
    • 「地面の底に顔があらわれ、さみしい病人の顔があらわれ」(地面の底の病気の顔)
    • 「みつめる土地の底から、奇妙きてれつの手がでる、足がでる、くびがでしゃばる」(死)
    • 「この身もしらぬ犬が私のあとをついてくる、みすぼらしい、後足でびっこをひいてゐる不具の犬のかげだ。」(見しらぬ犬)
  • これらの詩に出会ったとき、また心から読み合わせるとき、まさにその通りであり、そのような社会が私の世界のビジョンとして目の前に存在しているのである。
  • 詩とは自分の、叫ばずに入られない心の衝動やうごめきを、叫びとしてではなく形をもった言葉としてあらわすものだと考えている。その同じ衝動を持つもの同士が感じあうのではなかろうか。私は、この詩を読んだとき確かに自分がそうであり、そのような物であった。そして、また今でもそのようなものである。
  • しかし、このような人間にとっては、世界が自分に課しているはずの重たいものが、世界が映し出す本当の美しさに触れたときの衝動もまた大きいものがある。その美しさを詠んだ詩が「掌上の種」であると考える。この詩に読まれる題材は、農業を行っている人なら日常行っている作業である。しかし、社会の規則の中で人間だけを相手に仕事をしている者や、体の自由が利かない者にとっては、ほんとうに世界で一番すばらしいものであると思う。昨今では、高齢化社会を迎えるにあたって、生きがいとして農業が見直されているが、今まで農業を行ったことがない人にとっては、この詩はそのきっかけになるのではないだろうか。むろん、その前提となる他の詩を覆っている孤独と闇を感じることができたらの話ではあるが。
  • 萩原さんの詩を詠むときには、その時期があるような気がする。お勧めしても、さらに重たくなるだけかもしれないが、入院中に詠むと良く分かり合えるかもしれない。