室生犀星について

  • 「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」と、誰でも知っているフレーズの詩を書いたひとが室生犀星氏である。室生さんは金沢生まれで、早くから親元からお寺に預けられ、13歳で地元の裁判所の給士として働き、21歳で上京し働きながら友と出会いと詩作の道へ進んでいく。
  • このように詠まれた金沢という場所は、果たしてどのような記憶の残る場所だったのだろうか。預けられたお寺で室生氏の養育をした女性は、ほかにも養育料目当てにもらい子をしており、女の子は芸者にし、男の子は働かせてその給料を取り上げるといったところのある女性で、幼年時代は苦労多きものであったようである。
  • そのように環境から考えてみると、ふるさとを思い出してみても、あまり良い思い出がなく、もの悲しげにうたふものとも考えられるが、それだけでは詩として感情を表すにはたり無いように思う。
  • 自分の経験に照らし合わせてみても、「ふるさと」という出身地であまり過ごしていないので創造し難しいが、幸せなイメージがないからといってその場所が自分にとって思い出したくない記憶の隅の場所になるのではない。
  • 自分の生まれた地域・文化は自分の中に染み付いており、それは最初に刻まれた環境だからという他に、その地で生まれたものが共通に持っている集合的無意識的なものでもあると考える。他地域の文化・伝統を感じたときには、自分のアイデンティティの土台となる幼年時の「ふるさと」が必ず現れてくるはずである。
  • その場合には、遠く離れて悲しく詠う者としての自分をみて、「ふるさと」を思い、都会で屍となろうとも自分のアイデンティティを持って生きていくと解釈されるのではないか。自分は現在後者の人間であると思うので、後者の解釈に惹かれるが、文学者ではないので本当の所を研究する気は無く、好きに詠ませてもらっている。
  • 室生さんの詩は、私が他に好きな立原さんとはちがって、詩の終わりのほうが、詩の世界(主観的な感情が世界に埋め込まれファンタジーに近い世界)から抜け出して現実に戻った客観的な世界が読まれているようなところがある。そこが現実を暮らしている詩人の姿であり、不思議な魅力であると考えている。