中原中也について

  • 中原さんの詩を詠むと、鬼気迫る大地への雄叫びと諦めと、氷のナイフで切り裂くような繊細な悲しみに触れることになる。前者は主に少年の頃を詠んだ詩であり、後者は青年の頃を読んだ詩が多い。
  • 少年時代中原さんは、日清・日露戦争第一次世界大戦が勃発する中で、軍医だった父につれられて各地を転々としている。その中で、戦争と言うものを「茶色い戦争」として捕らえられている(詩 サーカスより)。いつの時代も、常に中央の意思が国民全体の意思ではないことはあきらかであり、それは中央を遠く離れるほど、主義主張に翻弄される立場に立つ。地方・戦場を転々とした中で、地域の退廃的においが茶色と表され、茶色い砂塵におおわれたものとしてとらえられたのではないだろうか。そのなかで中原さんは、優秀な学生から次第に学業を怠り放蕩無頼の生活へと進んでいったようである。人は環境に依存する生き物だ、繊細な感覚を持っているものは、現代でさえ社会で行きにくい。中原さんはその影響を「私は希望を唇に噛みつぶして 私はギロギロする目で諦めてゐた・・・ ああ、生きてゐた、私は生きてゐた!」と、衝動を音に変え表現しているように感じる。
  • 青年時代には、衝動から離れ、「汚れちまった悲しみに・・・」では、もはや救いさえも求めず、何も得ることができないとの表現を「なにのずむなくねがふなく 倦怠(けだい)のうちに死を夢む」と表現している。中原さんに対する社会は、真綿のような雪から、霙→霰→雹→そして吹雪へと変わり(生い立ちの歌より)、やがてしめやかになっていく。この悲しみは何に向かっているのだろう、締め付けれられるような思いである。
  • 私などは、東北の山を行く列車に揺られながら雪の降りてくるのを見つめている時など、中原さんの詩が透明な空から現れてくるような純粋な気持ちになる。中原さんは、繊細さゆへに社会に対して悲しく生きざるをえなかった人である。