高村光太郎について

  • 高村さんの詩は、学校の教科書で何篇か取り上げられいるはずであるがるが、学生時代にはあまり心打たれず、教科書外の詩を読むことはなかった。「千恵子抄」の中から「千鳥と遊ぶ千恵子」など2・3篇だったと思う。
  • 改めて読み返すきっかけになったのは、「さびしきみち」という詩の中で詠われている孤高の生き方と、「山」という詩の中で詠われている自然との対峙に深く引き込まれたからである。
  • 現代においては大抵の人は賃金労働者であり、自分の生み出したものが直接問われるということはないのではなかろうか。芸術を生み出しそれを糧として生きていくことは並大抵のことではなく、孤高の生き方であると私は考える。
  • 人生の岐路で私は、芸術ではないが、研究を続けていこうかどうか考えたときには、研究分野が自分の求めるものではなかったとともに、自分に絶対的な強さはないとして、組織で生きることを選んだ。私としては、読み返す度に、今の自分がはたして存在しているのかどうかを考えざるを得ない。
  • また、幼少時育った東京では感覚として自然との対峙を持つことはなかった。今でも、東京の街中にある樹木は自然ではなく、環境という植物であると私は感じている。東京での暮らしは、何か特別な人によって作られた世界の中で、普通の人がゲームをさせられていると言う様な感じがあり、酷く自分が意味なき者に思えた。
  • そのなかで私は、祖父のいる東北で過ごした時間の中で、啓示を受けるように世界を感じ、人は世界という未知な投げ出された存在の中で、自然と対峙しているということを学び、最終的にこの地で生きることを選んだ。
  • 高村さんは、千恵子抄という透き通る愛の詩だけでなく。芸術家をとして作品に厳しく向かって生きてきた人だと考える。その生き方を読み上げた詩をぜひ読んでいただきたい。