飯盛山:会津若松市

飯盛山

今週は出張で、会津若松市へ出かけていた。会津若松の地は、戊辰戦争*1において壮烈な決戦の地になった場所である。いくらかの空いた時間を利用して、その歴史の地を散策すべく飯盛山へと向かった。
飯盛山は、白虎隊の自刃地である。白虎隊記念館から引用すると

「白虎隊」は全部で約340名おり、親の身分により「士中一、二番」「寄合一、二番」「足軽隊」の5隊に分けられていました。この中の上級武士の子弟で構成されていた「士中二番隊」42名が、慶応4年8月23日(今の暦では10月8日)に猪苗代湖近くの「戸ノ口原」で戦いましたが敗退し、うち20名(人数には異説あり)が飯盛山に逃れてきましたが、城下で発生していた戦火に包まれた鶴ヶ城をみて、もはや落城したものと思い自刃(じじん)したのです。元号が「明治」に変わる16日前の出来事でした。

という悲劇の地であり、無念の魂の眠る地である。昭和3年ローマから記念碑が送られ、昭和10年には駐日ドイツ大使館付武官によって石碑が建てられている。
街中周遊バスのハイカラさんで20分ほどすると飯盛山の下につく。すっかり有名な観光地として、お墓のある山の中腹までエスカレーターもあるが、もちろん歩いて階段を登る(エスカレータは有料でした)。霧雨の降り続く中、観光客も口数すくなく、皆お墓に線香を上げ、冥福を祈っていた。
さらに奥の自刃の地に進み、城が燃えているのを見たという場所で鶴ケ城を探してみると、電波塔かなにかの赤いポールの後ろに小さく城を見つけることが出来た。城は街中にあるため、周りに高い建物に埋もれてしまっている。しかし、城とはかなり距離があるため、周りに何も無い昔においても、城本体が燃えているかどうかを判別するのは難しいだろうと感じた。
次の日は晴れており、仕事の昼休みに周りが見渡せるという場所から、会津の景色を眺めた。会津盆地の一番低い地区にあたり周辺が田んぼのため、建物の3階から360度を見渡すことが出来るという場所だ。盆地であるため、一面が山々に囲まれており、中でも磐梯山がひときわ雄大に座している。磐梯山は見る方向によって景色が変わる。表から見ると雄大に見えるが、スキー場があるため、虎刈りにされてあまり見栄えがしない。しかし、裏側か横側はなかなか良い。裏側の山頂付近は傾斜がきつく崩れており、草木の生えない茶色の山肌が山の雄々しさを際立たせる。横側から見ると山が尖っているように見え、このような見栄えの山はかなり珍しいと思う。ぜひともそのうち登ってみたいものである。
帰りには、日本酒の鶴ノ江の純米原酒を購入した。最近出入りしているお店にお土産に持っていこうと思っている。

*1:明治維新において、新政府軍と旧幕府軍の間に行われた一連の戦い。1868年の鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍はもろくも敗退。新政府軍の江戸城総攻撃はさけられたが、その後も上野に陣をしいた彰義隊や、会津・長岡を中心として、東北・越後でも激戦がつづいた。旧幕府軍の一部は、榎本武揚にひきいられ北海道の函館に陣したが、1869年の五稜郭の戦いを最後に鎮定された。