新年

雪の下 影をやなせる 旅人の 光をみつるや あらたまの年

解説しないと、いいたい事が分からないので以下に載せます。
「雪の下《もと》」は、雪の降るこの東北の地でという意味です。年賀状を送る人のたいていは、以前に東北の地に暮らしていた事のある人なので、私はまだこの東北の地に留まって、雪に照らされ暮らしています、と言う事を意味しています。
「影をやなせる」と言うこの部分が非常に難しいところだと思います。私もこの短歌が口から出てきたときに、意味がわからなくて困りました。不思議な気がしますが、以前によく音読した詩の言葉が頭の中に残っていて、そのまま雰囲気として出てきたと言うことです。
島崎藤村の詩「椰子の実」の一節の、「旧《もと》の樹は生《お》ひや茂れる 枝はなほ影をやなせる」の部分からで、旧の樹(海を渡って流れてきた椰子の実の母の椰子の木)が南の島で、暖かに手を広げ茂っている、そして茂っている枝葉は、私に陰を作って揺れていたの以前と変わらず、砂浜に揺れる影を作っている、といった母の事を思い出す所です(自分で考えてるので正確な物とは異なるかもしれませんが、インターネットで調べた限りでは似たような意味でした)。
私の短歌の中での意味としては、上とは少し違って、影を作っているという事をいただいています。大学は皆と同じ時期に出て、皆は巣立っているのに、私はこの仙台の地に残り、以前と変わらず言葉や知識を拾い集め、新しいことを知り・考えて、白い紙に書き付けては(一行目の雪ともかけています)、意味無きものと社会の中で有効にならぬものとして陰を作り続けていると言うことを示したいので使っています。
「旅人の」は言う必要もありませんが、雪の街を一人、空から照らしつける雪の光を受けて、雪の道に私の影を作り、足跡としての陰を作り、創作活動としての陰を作り「旅人」としての漂泊を続けていると言う事です。
先に「あらたまの年」の方に行きますが、これはもちろん新年の事で、冬の季語です。季語辞典によると、「あらたま」とは掘り出したままの、まだ磨かれていない玉のこと。無垢で真新しい、年・月・春の枕詞であるとのこと。
「光をみつるや」は、「光を見つける」と「光が満ちる」の2つの意味を併せているためにひらがなになっています。
「光をみつるや あらたまの年」として、まだ磨かれていない、私にとってこれから光が満ちる新しい何かを、今年探していきたい、またあなたにとっても、見つけて欲しいと言う気持ちが託されています。

では、今年もよろしくお願いします。