一歩

後《のち》の彼の日記を読むと
その日大学屋上のフェンスを越え
空と建物の境界へと立ったが
私には自殺のための一歩が欠けている
そう記《しる》してあった。

毎年遺書のような言葉を書き
死に場所を探し、生まれてきたような場所を探し
私は冬に臨《のぞ》む
しかし、私にもこの一歩が欠けている
腕を切り裂く一手《いって》
踏み台を蹴りつける一足《ひとあし》
空へと踏み出す一歩《いっぽ》
この一歩は私には足りない
そう 自然と消えていく、意識が薄れていく
結果としてではなく
この踏み出す一歩、すべてを肯定する一歩

彼は春が辛いと言った。
人と出会う春が辛いと。
それは違う
この一歩は社会よりも重くてはならぬ
貧困の為《ため》ではなく
裏切りの為でもなく
愛憎の為でもない
ましてや国の為なんかではない
一対全の問題である
友人は彼に、そんな事を考えず
職を得たのだから幸せになるとそう諭《さと》す
しかし私はその一歩の肯定
一歩の肯定の重みのすべてを彼に
彼から探り当てたい

もしその一歩が不意《ふい》に行われるとしたら
それは自殺ではない
社会と言う他者によってなされる殺人に過ぎない
その境界の敷石が氷によって光り
誤って落ちた 事故に過ぎない
それは雪の後の 朝の路面の艶《つや》やかさに
足と腰を滑らすのと同じだ
向き合うべきは己《おのれ》の存在である
いま一歩のために、この一歩のために
我らは荒野を歩かねばならない

    (2005.1.2)
 31日の朝まで一緒に酒を飲み、別れた友人の日記を読んで。