宮沢賢治の年譜

明治29年
岩手県稗貫郡里川口村(現花巻市)に、質・古着商を営む父政次郎、母イチの長男として生まれる。仏教篤信の家庭で幼時より経文を唱える。
明治31年
妹トシ出生。
明治36年
花巻川口尋常高等小学校に入学。童話を好み、鉱物、植物、昆虫採集、標本作りなどに熱中、「石コ賢ささん」とよばれる。
明治42年
県立盛岡中学校(現県立盛岡第一高等学校)に入学。寄宿舎自彊寮に入る。
明治43年
博物教師に引率されて岩手山初登山。
明治44年
短歌の創作開始。
大正 2年
新舎監排訴の動きにより全員退寮させられ、盛岡市北山、清養院(曹洞宗)に下宿。
大正 3年
盛岡中学校卒業。肥厚性鼻炎手術で岩手病院に入院。手術後発疹チフスの疑いのある高熱のため再入院、看護婦に片思いをする。
大正 4年
盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第2部に入学。寄宿舎自啓寮に入る。この年、片山正夫「化学本論」刊行、賢治の座右の書となる。
大正5年
校友会会報に「健吉」の名で短歌29首を発表。
大正 6年
校友会会報に「銀縞」で短歌「雲ひくき峠等」を発表。
小菅健吉、保阪嘉内、河本義行らと同人誌「アザリア」を創刊。短歌「みふゆのひのき」、短編「「旅人のはなし」から」を発表。
大正 7年
論文「腐食質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」を提出、盛岡高等農林学校卒業、研究生となる。妹トシ入院との報せで母と上京。
「アザリア」に断章「復活の前」、短編「峯や谷は」を発表。童話「蜘蛛となめくじと狸」「双子の星」を創作。
大正 8年
帰郷し家事に従事。
大正 9年
盛岡高等農林学校研修生修了。国柱会信行部に入会。
短編「猫」「ラジュウムの雁」「女」を創作。
大正10年
無断上京し、文信社の校正、筆耕の仕事に就きながら街頭布教や国柱会本部での奉仕活動をする。トシの病気の報に帰郷。稗貫郡立稗貫農学校(のち県立花巻農学校)教諭に就任。
「愛国婦人」に童話「あまの川」「雪渡り」を発表。
童話「龍と詩人」「かしはばやしの夜」「鹿踊りのはじまり」「どんぐりと山猫」「月夜のでんしんばしら」「注文の多い料理店」「狼森と笊森、盗森」などを創作。
大正11年
妹トシ死去。
心象スケッチ「屈折率」「くらかけの雪」「小岩井農場」「イギリス海岸」を創作。
童話「水仙月の四日」を創作。
詩「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書く。
大正12年
童話原稿を出版社に持ち込むが不採用。教え子の就職以来のため樺太に旅行。
「岩手毎日新聞」に詩「外輪山」、童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」を発表。
国柱会機関紙「天業民報」に詩「青い槍の葉」他を発表。
大正13年
心象スケッチ「春と修羅」を自費出版
イーハトーヴ童話「注文の多い料理店」を刊行。
「反情」に詩「陽ざしとかれくさ」発表。
銀河鉄道の夜」を創作。
大正14年
森編集「貌」、草野編集「銅鑼」に詩を発表。
岩手日報に変名にて「法華堂建立勧進文」を発表。
「虚無思想研究」に「冬(幻聴)」を発表。
大正15年
花巻農学校を依願退職、独居生活を開始。羅須地人協会を設立。上京しオルガンやセロを習う。高村光太郎を訪問。
「月曜」に「オツベルと象」「ざしき童子のはなし」「寓話猫の事務所」を発表。
「貌」「銅鑼」に詩を発表。
昭和 2年
肥料設計・稲作指導を始める。
盛岡中学校友会雑誌に詩を発表。
「無名作家」に詩「陸中国挿秧之図」を発表。
「銅鑼」に詩「イーハトーブの氷霧」を発表。
昭和 3年
急性肺炎になる。
「銅鑼」に「氷質のジヨウ談」を発表。
「聖燈」に「稲作挿話(未定稿」を発表。
昭和 4年
東北砕石工場主鈴木東蔵来訪。
昭和 5年
「文芸プランニング」に詩「遠足許可」等を発表。
昭和 6年
東北砕石工場技師となり、宣伝販売を受け持つ。
石灰宣伝で上京中に発熱、遺書を書く。28日、帰郷、自宅で病臥。
手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。
「児童文学」に童話「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。
昭和 7年
「児童文学」に童話「グスコーブドリの伝記」を発表。
「女性岩手」に詩「民間薬」「選挙」「祭日」「母」を発表。
「詩人時代」に詩「客を停める」を発表。
昭和 8年
「天才人」に童話「朝に就ての童話的構図」を発表。
現代日本詩集」に詩「郊外」「県道」を発表。
「女性岩手」に「花鳥図譜七月」を発表。
石川善助遺稿集「鴉射亭随筆」に追悼文連載。
「北方詩人」に詩「産業組合青年会」を送稿。
法華経1千部を印刷して知人に配布するよう父に遺言して死去、享年37歳。



花巻市HP 宮沢賢治年表 等参考)