網走にて

くじら雲


網走駅で列車を降りると、蕩々と流れる網走川が見えました。海からの風に吹かれた水は、どちらに流れているともわからないほどに悠々でした。海が見たい、そう思いました。私がとっての海は、夏に人が集まる海ではありません。夏であればリアス式の高い岸壁、冬であれば誰もいない荒涼とした砂浜です。今年はまだ、海を見ていません。
川の先に漁港のクレーンが見えます。その先には何も見えません。ずっと海が広がっているのでしょう。川沿いに整備された広い遊歩道を歩いていきます。マメ科の木でしょうか、道路沿いの街路樹は、緑色の房を垂らして実を膨らませています。川沿いの道、そして街のすべてが涼しげに、日も傾き始めました。
こうやって歩いていると、もうこの街では蝉が鳴いていないことに気付きます。昼の暑い中を押しつけるように鳴く油蝉も、夕暮れから夜にかけて人生の黄昏を感じさせるヒグラシの声も、この街からはぴくりとも聞こえません。海へ向かう道は、波の音が聞こえてくるほど静かで、海鳥が嘆く声も聞こえてきます。道の脇の電信柱の中には木の柱もあり、樹皮に覆われたままの幹が海風に吹かれて荒れた肌を見せていました。
同じような屋根、同じような色の薄れ具合、水産加工の工場群を抜けると、防波堤の先の短い砂浜に出ました。海についての詩と言えばどういう詩が思い浮かべるのでしょうか。
「渚には蒼きなみのむれ かもめのごとくひるがえり 過ぎし日はうすあおく 海のかなたに死にうかぶ」(室生犀星 「砂丘の上」)
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず」(石川啄木 「我を愛する歌」)
「あの青い空の波の音が聞こえるあたりに 何かとんでもないおとし物を 僕はしてきてしまつたらしい」(谷川俊太郎 「かなしみ」)
谷川さんの海は、空の青さが白く霞む中、変わることのない地平線の辺りの海。室生さんの海は、冬の穏やかな日に、荒れることもある大洋に面した海の浜から少し先の辺りの海。啄木の海は、穏やかな春の日の夕方、寄せる波が砂浜に色付けをしていく辺りの海。そしてこのオホーツクの海は、波がとても激しく打ち付け返して行く中で、浜辺の海鳥たちが足下をさらわれながら静けさを保っている海でした。

 (2005.09.8)