月明と覚りの関係について

週末は美術館・博物館へ

先週末は太平洋側に雪が降り、私の住んでいる埼玉でもこの冬初めて雪を見ることができました。私のアパート前の道は日当たりが悪くて、一週間経った今でもそのとけた雪が固まって新しい模様を作っています。こう朝が寒いと外に出たくないものですが、こういう時にこそ美術館や文学館に出かけて様々な作品に出会い、新たな道に連なる様々な世界の要素を取り入れたり、自分が形にできないでいる思考を構成仕直したりしたいものです。

国立近代美術館へ

最近、私は道元の「正法眼蔵」を読んでいるのですが、その本の一節が次第に心に沁みわたるようになり、それと共にある一つの絵が心に浮かぶようになりました。
その絵は以前に東京国立近代美術館で見たもので、比較的大きな絵画でしたが、それにしても他と比較して特別な紹介や扱いがされているものではありませんでした。
しかし私はその絵を見た時、どうしてかその絵の前を立ち去ることができなくなり、その絵の前を近づいたり遠ざかったりしながら、じっとたたずんでいました。そしてしまいに私はそこで立っているよりも、低い視線からこの絵を透徹して眺める方が良いと思うようになり、その付近に置かれていた椅子を動かして閉館まで座り続け、ずっと見つめておりました。
しかしその時その絵に捕らえられたのは、思想的なわだかまりからではなく、ただ純粋にその絵の風景に引きつけられたからでした。
しかし今回は、上述のような別の意図からその絵が気にかかるようになり、もう一度東京国立近代美術館に出かけることにしました。

月明(徳岡神泉

その絵は徳岡神泉(1896〜1972)さんの「月明」という作品で、縦246.4cm×横175.6cmのキャンバスに、月と水面(沼・湖)と薄(すすき)が描かれています。
まずその3点の中で月は、水際の寂静世界を浮かび上がらせる役割を果たしており、大きな満月が闇の虚ろさに吸われつつ、キャンバスの上部から生糸のように水面を照らしています。この月は大変眩しく感じられる一方で、その表面がざらざらと乾いており、素焼きの陶器のような表情をしています。
そしてその霞のような月明かりが照らす群青色の水面には、キャンバスの両脇から垂れた薄が枯れた白さを残し、そしてその儚さの幾らかが、水面に触れるか触れないか程で淡く揺らぎを映しています。

月か鏡か

私は今回改めてその絵を意識的に眺めてみると、以前には気に留めなかったこの絵の違和感を認識するようになりました。そしてその心の奥底では濁っていたのであろう違和感こそが、この絵を私の中に思い浮かべさせた原因なのであり、それはこの絵の構図に関することで、この月が果たして夜空に浮かんでいる月なのかということです。
例えばこの絵を初めて見たとすれば、キャンバスの上部に輝く月と、そこから光を浴びて淡く光る薄の穂の白さに惹かれて、この寂静とした秋の夜の月世界をそのまま美しいものとして受け入れるでしょう。
しかし別の視点からこの絵を眺めてみると、例えばその絵を写した縮尺画像などを見てみると、上部中央にそびえる月の印象は弱まり、その周りの闇と、両脇の薄の間に延びる水面に意識が向くようになります。すると、この寂静とした風景の中の水面が、月を映していない事に気付くようになります。
或いはそのことを逆に考えて、このキャンバスの絵が薄と水面に映った月の絵だととらえ直そうとしても、人の瞳孔がそのようにとらえるためにはこの月はあまりに鮮やかで大きすぎであり、このキャンバスの大きさでそれを思わせるためには、例えば水平にキャンバスを置くなどの工夫があえて必要になってくるものです。
つまり現在のように立て掛けられている限りでは、この顕わな月の存在を抑えることが出来ず、この月がはっきりと水に映った月だと思うことは出来そうにありません。

人が覚りを得るのは

そして一方、私の心にこの絵を浮かばせる事になった「正法眼蔵」の言葉ですが、それは「人が覚りを得るということはどういう事か」について説明しているところです。

正法眼蔵 (道元
第1 現成公按 (11) 石井恭二訳(河出書房新社

人が覚りを得るのは、水に月が宿るようなものである。そのとき、月は濡れもしない、水が壊れることもない。それは広く大きな光ではあるが、ほんの少しの水にも宿り、月のすべては天のすべては草の露に宿り、一滴の水にも宿る。覚りが人を壊さないのは、月影が水を穿つことのないようなものである、一滴の水に天月のすべてが覆い妨げられることなく宿るようなものである。〜(略)

覚りがどういう事であるかについては、私は一切門外漢なので省かさせていただきますが、覚りというのは何か得たり失ったりする「物」ではなく、覚りという状態だけがあるということです。

どういう構図か

もしこの覚りの状態の表現を視覚に訴えるのであれば、どういう構図を描けば良いのでしょうか。
例えば絵の中に、空の月、沼、沼に映った月、そして薄を描くとしたら、「月は水面に映ろうとも濡れることはなく、沼は月を映しても水が壊れることはない」という言葉は、心に沁み入るものとして伝わってくるでしょうか。
もちろんこの文と絵が共にあるとすれば、この絵はそういった事を表して書いたのだと思うのでしょうが、絵が単体であったとしたら、その絵は秋の夜の原風景を描いたのだろうと思われるだけで、覚りの状態の表現に関係している絵とは思わないでしょう。

「月明」の絵の表現性

そして、私が「正法眼蔵」の一節と絵を結びつけて考えるようになった理由はここにあり、水面に映るはずの月があえて描かれていないことによります。
(以下文の切れ目が悪いのですが、説明することが難しいためご容赦ください。)
この絵は、水面にあえて月を描かないで、月を大きな光としてキャンバス上部に描くことにより、この月が空の月であるととらえさせながら、しかしその絵を奥深く心に留める者に対してあえて「この月が本当に空の月であろうかそれとも水面に映っている月だろうか」という疑問を抱かせることにより、空の月と水面の月の中間の状態へと人の思考を運ばせることによって、「月は月として空にあり、水は水として月の姿を映している、月は水面に映ろうとも濡れることはなく、沼は月を映しても水が壊れることはない」という「正法眼蔵」の一節を表現していると思われてきたのです。

最後に

むろんそういった事を感じながらも、実際のところは画家の意図によるので、残念ながら私に本当のところは分かりません。しかしこの絵から感じられた上述のような違和感を心に留めると、この絵で描き表していることが「正法眼蔵」の言葉であると思われてくるのです。
そして実際の意図がどうあったとしても、私にはこの絵が印象づけられることになり、そしてそれとともに「正法眼蔵」の言葉がより身体に沁み込むことになったのは確かです。私は芸術の分野には門外漢の人間ではありますが、たまにこういった印象に残ることがあると、また美術館に足を運んで新しい作品に触れてみようと思うものです。
月と覚りの関係に関しては上述の部分の他に、「仏性とは、虚しく何のわだかまりもなく明るいもので、姿相を越えた形は満月のようである」という言葉もあります。満月はたいへん明るく満たされており、自然と人にそういう事を感じさせてくれるものかも知れません。