真実に生きようとするもの

妻よ
お前はジァン・フランソワ・ミレーを知つてゐるだらう
それを本で読んだことがあつたらう
あの画描きのミレーのことだ
自分達はよく彼のことをはなした
彼がいかにまづしくあつたかをはなしあつては胸を一ぱいにし
自分達の境遇をなぐさめ
凡そ地上に芽ぶいたものは
そして一きは高く蒼天をめがけるものは草木ですら
みんなかうだと
彼によつて自分達の仕事はいまもはげまされるのだが
それでも二人はいくたび熱いなみだをふいたことか
ほんとに彼のびんぼうは酷かつた
彼等のことをおもへば
自分達のびんぼうやくるしみなどはなんでもないと言はねばならない

こゝは雪もみぞれもふらない国だ
どこへいつても
大きな蜜柑がいろづいてぶらぶら枝をたわめてゐる
こんなところへきて
この南方のあたゝかい海のほとりで
避寒してゐる自分達
避寒してゐるなどときいたら
なんにもしらないひとびとはなんといふだらう
なんとでもいはしておけ
なんとでもおもはしておけ
とはいへ
このさんたんたるせいくわつはどうだ
あの喀血にひきつゞくこのまづしさとくるしみ
このさんたんたるせいくわつを見ろ
雨がふればどこに棲まはう
風がふけばどこに寝よう
あゝかうして広い野原をさまよふ小鳥のやうな自分達
自分はいゝ
自分だけならいゝ
またどんなことでもそれが妻や子どものためならばしのばう
よろこんでしのばう
けれど世にでたばかりのあかんぼの上にまで襲ひかゝるこのあらし
これはどうだ

いかにもよい日和《ひより》の中では
そしてなにふそくなくくらせるときには
どんな立派なことでも言へる
どんな立派なことでも言へ
それでよかつた
だがいま自分は野獣にかへる
これぐらいのくるしみがなんだ
自分はいゝ
自分を打て
自分の上にのしかかれ
愛するものよ
おまへたちをおもへば自分は人間をわすれる
そして荒野の獣になる

あゝ、自分は感謝する
この人間としてのくるしみによつて
このくるしみこそ
神の大きな愛だといまは知るから
きたれ
それでも巣はみつかつた
やつと身をいれるにたりるだけの四畳半と三畳との小さな巣
梢にゆれてゐるやうな巣だ
あのうれしさをおぼえてゐるか
ひさしぶりでのんびりと
つかれた機虫《ばつた》のやうに足を伸ばした冷いうすいあの垢染みたかしぶとんの上を
うすぐらい豆粒のやうな五燭電燈の光のしたでとぢた眼睫を
それでもぐつすりとよくねたあの夜を
だがまた朝となり
めざめればめのまへには雲のやうに湧きあがつて
自分達をまつてゐるくるしみ
大鷲のやうに爪を研ぎ
つかみかゝり
またかぶりつき
たうとう自分達は最後の銅銭一つすらのこさず掻きさらはれて既に十日余
いまははや一枚の葉書も買へず
手紙は書いても出すことができず
ひげはのび
からだはあかじみた
妻よお前の薬もかへない
玲子よお父さんがおまへにはお伽噺でもしてきかせよう
やりたいけれどやることのできない
これはお菓子のかはりだ
いつしか空つぽになつてゐる瓶と甕
味噌も油もまつたくつきてゐるけれど
而《しか》もまだ米櫃《こめびつ》のそこには穀粒がちらばつてゐる
その穀粒をみると
おのづからあはさる此の手だ
それでいのちはつながつてゐるのだ
糸のやうにもほそぼそと
それもなかつたら
自分達はもうとうにむつまじく枕を一列にならべて
この生きのくるしみから
やすらかにゆるされてゐたんだ
おゝ妻よ
それから死んだおぢいさんよ
なにもかもこれなんです
恨んではくださいますな

すべては自分の意志からくる
自分はそれをしつてゐる
けれどこればかりのことでへし折れるやうな意志ではない
びんぼうがなんだ
びんぼうがなんだ
金銭のためにこの首がぺこペことさがるとおもふか
はづかしいのはびんぼうではない
そのくるしみに屈することだ
強い大きな意志をもたないことだ
強い大きな意志をもて
妻よ
それはそれとして自分はおまへのまへに跪《ひざまず》く
おまへは女であるけれど
まるで戦場のつはもののやうだ
このせいくわつの戦場で
病める夫をみにひきうけ
わがみのことなどはおもふひまもなく
そのうへ
子どもらを育てはぐくむその忙しさ
妻として母としてのたえまなきこゝろづかひ
自分はおまへが髪結ひをよんだのをみたことがない
いつも自分自身の手でかきあげる
結婚当時はそれでもやゝていねいに
顔や襟首にまでもすこしは気を配つてゐたやうであつたが
此頃は髪もかんたんなぐるぐる巻き
ぐるぐるまきは自分も好きだ
それだとておまへはすきやこのみでするのではない
それはよくわかつてゐる
畳みかさなる苦労から
あのふさふさした燕色の黒髪も
こんな黄蜀黍《とうもろこし》の房となる
そしていまはそれがかへつてよく似合ふやうな女になつたお前
それから手足のそのひゞやあかぎれ
なりにもふりにもかまはず
否、かまつてゐるまももたないお前
そしてまだ齢若なお前
それらが自分をものかげにつれていつてはよく泣かせる
自分はえらんだ道だからいゝ
自分は自分の道のうへに屍骸を横へるのだからいゝ
でもおまへたちまで犠牲にするかと
それが自分をくるしめる
妻よ
子ども達よ
自分はびんぼうだからとてもおもふやうなことはできない
おまへたちにぜいたくはさせられない
それはこんな人間を父にもち夫にもつたものゝふしあはせで
また実にお前達一生のわざはひといふものだ
けれどおもへ
金銭づくではどうともならない
一切のうへに立つもの
一切を征服するもの
一切の美の美
それをこのびんぼうやくるしみはあたへてくれる
みかけだふしではない
正しいほんとの人間にしてくれる
立派にかゞやく人間であれ
内から立派に
おゝ谷間をながれる雪水のやうなこのびんぼうのきよらかさは
切られるやうなこのくるしみの鋭さは

あれあれ御覧
あの遠天に小さくみえて鴉が二羽
けふのこのときならぬ強風に
この風をつきぬけ
この風をつきぬけ
この大空を横切つて飛ばうとしてゐる
そしてこの強風とたゝかつてゐる
その下は荒狂ふ大海原だ
どこへゆかうとする鴉らか
遥にめざすかなたには巣でもあるのか
かあいゝ雛でもまつてゐるのか
人間はみな二十日鼠のやうにみすぼらしくも
終日家にとぢこもり
気をくさらし
火に獅噛みつき
而《しか》もなほ縮み上つてゐるであらうに
妻よ
なんといふ雄々しい鴉だらう
あゝ荘厳である
相愛し
相励ましてとべ
この強風をつきぬけろ
餓ゑかつあらそひののしりさわいでまつてゐるやうな怖しい波間に
いまにも叩き落されさうにみえ
それでゐてなかなか強い翼の鴉ら
人間もおよばぬほどの勇敢な鴉ら
ひらひらと木の葉のやうに
さうかとみればひきはなたれた弓矢のやうに
自分は恥ぢる
恥ぢながらも自分は讃へる
おゝ自分達夫婦のやうな鴉ら
わが妻よ
しかしもはや暴風雨は自分達のうへを通過する
ミレーは彼等をたづねてきたその友になんと言つたか
よくきてくれた
君がきてくれなかつたら自分達はどうしたゞらう
自分達はもう三日間も食べない
だが子どもらのパンはさつきまでやつとまにあつた
それから妻君にむかつて
その友のもつてきたものをてわたしながら
おい、これで薪木を一束買つてきてくれないか
寒くつてたまらない
みればミレーは汚い木箱に腰をかけ
真蒼な顔をふせ
ぶるぶるふるへてゐたといふではないか
妻よおまへも聴いたらう
これがミレーの言葉だ
これが真実に生きようとする人間の言葉だ
この言葉は力強くも
自分を生かす
人間を生かす

何もかもしのんでおくれ
しばらくしのんでおくれ
いまは冬だが
自分に新しい芽のふくまでだ
翼の強くなるまでだ
そして飛び且《か》つ駆出せるやうになるまで
跳ねかへれ、力よ
躍りあがれ、力よ
こんな自分は自分でない
こんな自分はいまにほんものゝ自分が生れ
一こゑ雄獅子のやうに咆えるとき
尻尾をまいてこそこそ逃げだす野良犬のやうな自分だ
いまにみろ
いまこそ自分は自分を信ずる
妻よ子どもたちよ
よろこべ
このまづしさを
このくるしみを
すべてはこのさんたんたるどん底から来る

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