かなしくなったときは(4)〜かなしくなったときは〜
<かなしくなったときは(3)から|
かなしくなったときは
そのようにして聞いていた中で、記憶に残ることになったのは、寺山修司の詩の「かなしくなったときは」という歌曲でした。この詩については、大中恩と言う人が作曲を行っています。
実のところ、私はこの曲を聞くまで、この日本歌曲を聞いていることにあまり興味を覚えず、唯一どこかで聞き覚えがある北原白秋の「鐘が鳴ります」を歌った人がいたものの、あまりに場違いな所に来たと、最初の休憩時間になった時にそっと出て行くつもりでした。
しかしその曲は、他の曲の詩と比べみても、歌われている言葉の一つ一つが簡易な言葉であり分かり易く、初めてその歌曲に触れる場合であってもその詩の言葉と向き合うことが出来ます。そしてまたその詩の言葉は、その歌曲の韻律の中で、私にあまり馴染みのない寒寂とした海を懐かしいものと感じさせ、そして私が病弱な形で抱えている根源的な悲しみを、この風景の末に辿り着かせ繰り返させるものです。
それゆえにこの歌曲は、私の心の深い底の寂静として終わりのない辺りに、白く細かな泡の先で音を立てて広がりながら、半円形の細波を投げかけて私の目に涙を生み出し、そしてその黒く音のない砂礫のたたずみをザラザラとした音で潤して、そこの幾つかの輝きの輝石を露わにしていったのです。
かなしくなったときは (寺山修司)
かなしくなったときは
海を見にゆく
古本屋のかえりも
海を見にゆく
あなたが病気なら
海を見にゆく
こころ貧しい朝も
海を見にゆく
ああ 海よ
大きな肩とひろい胸よ
どんなつらい朝も
どんなむごい夜も
いつかは終る
人生はいつか終るが
海だけは終らないのだ
かなしくなったときは
海を見にゆく
一人ぼっちの夜も
海を見にゆく