かなしくなったときは(5)〜詩は何を語るのか〜

gravity22006-06-18


かなしくなったときは(4)から

会社にて

私はその翌日の会社の昼休みに、日本歌曲コンクールのことを話し、その歌曲の中で感動した詩が一つあったことを話題にしました(詩に興味を持つ人が増えれば良いのでが)。すると、同僚の一人がその話に興味をもってくれて、詩をみたいと言ってくれたので、私は昼休みの終わりにその詩(寺山修司「かなしくなったときは」)の正確な全文を渡し、後で感想を聞くことにしました。
その人は、暖かく幸多いイメージを持つ四国の瀬戸内海に面した所で育った人です。私は以前に一度、愛媛を旅行したことがあるのですが、松山駅から西に向かう電車の沿線沿いの集落や里山には、桜の木が自然な形で生えていて(公園みたいに一列や一カ所に植わるのではなくて、他の樹種の間にぽつんぽつんと自生している様に)、それが新緑の緑と山桜の赤みがかった葉と相まって咲いていたため、穏やかで丸みのある風景が続き、この土地がとても和やかであることを感じました。
ですから私はこの同僚が、自分の中に持っている海のイメージを、この流離(さすら)うように切なく蒼い海の情景と照らし合わせてどういう差異を感じるか、また、自分ならどういう感情の時に海を見に行くかという、詩の風土と海に関する反応を待ちわびていました。
しかし残念ながら、その人が帰り際に返した言葉は、「この詩は何が言いたいのか」というものであり、そして、「なぜ古本屋がでてくるのか」という返答でした。
私はこの詩に対して、どうして原因や結果を求めるのかが分からないのですが、その人はこの詩の言葉から、感情の具合を感じることが出来ず、その海の情景を広げることができないようでした。
年齢的に私より上の人なので、近年の新古書店しか知らないはずはないのであり、私は古本屋について、古くなって日に焼けた紙の匂いとか、天井まで本が積まれている知識の重々しさとか、本棚と本棚の角にできる濃密な陰とか、そしてそこにも下から本が積まれている鬱積とした感じから紡がれる悲しみの具合を伝えようとして、それからこの詩の鑑賞について述べると、「言われてみればそうだね」?、という曖昧なやりとりになりました。

詩は何を表すのか

結果として私は、その人の「何が言いたいのか」という質問については何も説明していないのであり、かといって、詩と言うものはそういうものではなくて「こういうものなのですよ」、という、「詩は何を表すのか」についての明確な説明を行うことも出来ず、私はその場で詩について説明することが出来ませんでした。
思えばこの質問は、私が時々詩について友人に話すとき、「詩というものは分からない」という友人の反応に対して詩を示すことでしか回答することが出来ないという、結果として理解出来ない世界という印象しか与えない問題にも繋がっていることです。それゆえに私はしばらく、「詩は何を表すのか」ということについて考えていました。
例えばこの「かなしくなったときは」の詩について言えば、この詩は寺山修司さんの心境を言葉とリズムで、つまり韻律をもって表したものであり、「何がいいたいのか」ということの理由を探そうとして、「悲しくなったときは 海に行くものだ」とか、「北の方の海は寂しいものだ」とか、「海は人間よりも偉大な物であり、抱かれればよい」とかそういう事を考えてみたとしても、それは意味のあることでないでしょう。
では、どういう事かというと、詩が表していることとは、「どういう理由で」ということではなくて、「どういう具合に」というのが詩で表されているのです。このことは、萩原朔太郎さんの詩集「月に吠える」の序文に見いだしたものなので引用しますと

 『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何人(ぴと)もたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

「人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、そこには音楽と詩があるばかりである。」、このことが詩の本質であると私は考えます。
悲しみがあるとしたら、悲しいという心の中に切りつめられた思いをいかにして伝えるか、それはどのような原因によって、どのような今後のアクションを期待してということのみに帰結するのではなく、人は涙を流したり嘆いたりして自分の悲しみを表現する、そういうどのように悲しいのかを伝えることであり、そしてその悲しみの具合を人に言葉で伝えるとした時、そこに詩があるのです。
日本の歴史においては、自分の心境をいかにして表現するかということに古くから重きがおかれており、俳句や短歌というかたちで古くから自分の心を相手に伝えてきました。それは、原因や結果を求める論理的な世界ではありません。まとめて数字に集約されるものではないのです。詩に対して、何が言いたいのかを求めるのではなく、自分の中に生まれた感情を、詩や音楽として表現し合い、それを互いに感じ会えるような日常を、理解していただくことが必要なようです。

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