落櫛

磯回《いそは》の夕《ゆふ》のさまよひに
砂に落ちたる牡蠣《かき》の殻《から》
拾《ひろ》うて聞けば、紅《くれなゐ》の
帆かけていにし曽保船《そぼふね》の
ふるき便《たより》もこもるとふ
青潮《あをうみ》遠きみむなみの
海の鳴る音もひびくとか。
古城《ふるき》の庭に松笠《まつかさ》の
土をはらふて耳にせば、
もも年《とせ》過ぎしその昔《かみ》の
朱《あけ》の欄《おぼしま》めくらせる
殿の夜深き御簾《みす》の中、
千鳥《ちどり》縫《ぬ》ひたる匂ひ衣《ぎぬ》
行燈《あんどう》の灯《ひ》にうちかけて、
胸の秘恋《ひめごひ》泣く姫が
七尺《しちしやく》落つる秋髪《あきがみ》の
慄《ふる》ひを吹きし松の風
かすけき声にわたるとか。
ああさは君が玉の胸、
青潮《あをじほ》遠き南《みむなみ》の
海にもあらず、ももとせの
古き夢にもあらなくに、
などかは、高き彼岸《かのきし》の
うかがひ難き園の如、
消息《せうそこ》もなきふた年《とせ》を
靄のかなたに秘めたるや。
君夕毎にさまよへる
ここの桜の下蔭に、
今宵おぼろ夜十六夜《いざよひ》の
月にひかれて来て見れば、
なよびやかなる弱肩《よわがた》に
こぼれて匂ひ添へにけむ
落葩《おちはなびら》よ、地に布《し》きて、
夢の如くもほの白き
中にかがやく波の形《かた》、──
黄金の蒔絵《まきゑ》あざやかに
ああこれ君が落櫛《おちぐし》よ。
わななきごころ目を瞑《と》ぢて、
ひろうて耳にあてぬれど、
君が海なる花潮《はなじほ》の
響きもきかず、黒髪の
見せぬゆらぎに秘め玉ふ
み心さへもえも知れね。
まどひて胸にかき抱き
泣けば、百《もゝ》の歯《は》皆生《い》きて、
何をうらみの蛇《くちはな》や、
ああふたとせのわびしらに
なさけの火盞《ほざら》もえもえて
痩《や》せにし胸を捲《ま》きしむる、

(乙巳二月十八日夜) 

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