新年 ノッソノッソ

月夜

新年

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
私事ですが昨年の後半からは色々と疲弊することが続いており、コメント等対する返答が滞っているのですが、決して読んでいないのではなくHPなど訪問させて頂いては色々と考えさせられております。
ただ、私に与えられた人間の天分では、電子の世界の早さにはなかなかついて行けません。ブックマークに入れさせて頂いて、ノッソノッソと旅させて頂きますので、そういうことで今後もご容赦下さい。

ノッソノッソ

言い訳がましいようですが、そのノッソノッソについて少し。
昨年の年末ですが、私は昔読んだエッセイを旅先に持ち込み、コタツに横になりながらゆっくりとめくって過ごしていました。私の本を上の方から見ると、色とりどりの付箋が貼られていることがあって、色自体には意味のある時もない時もあるのですが、私は何か深く感じる事があったところには、付箋を貼るようにしています。そうしていると、以前から幾つか年をとった自分は、以前に付箋を貼った所とは異なるところに感じいったりするものです。
今回読んでいた本の一冊は、中野孝次さんの「人生の実りの言葉 (文春文庫)」という本で、中野さんが昔ノートに書き留めた言葉を、その当時の自分との関わりという背景を添えて、一つずつ紹介していくエッセイでした。
その中の一つに、夏目漱石が若き日の芥川龍之介久米正雄に宛てた手紙から、「牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。」という言葉が紹介されています。
この言葉は、文壇の中で生きて二人に対して、ひた押しの努力をしなさい、世間の反応によって有頂天になるのでも落胆するのでもなく、常に自分と向き合い、自分を考えて、超然として牛のように力強く、全力で押してゆきなさい、という事を伝えようとしたものだそうです。
この言葉を昔読んだ時には、異なる分野の話として後から思い出すことがなかったのですが、数年の時をおいて改めて読んでみると、今の時代という浮き沈みによる変化が激しく、価値も絶えず拡散していく社会にあってはこそ、こういう言葉というものが生きていく上でかみしめていくべき言葉ではないかと、線を引き付箋を貼ることになりました。今年は社会の流れとしても、そういう言葉から外れた一端が表に現れた年かも知れません。
この様な時代にあって、今の社会、会社、街並み、そういった変化の様々な方向性のどれとも少し違っている私の様な人間は、それこそ牛のようにひたすら自分を押していくしかない、それも超然と押していくしかないと、考える次第であります。