かまくら

鶯宿川@雫石

年賀状

私が年賀状を書いているときにいた場所は、岩手の山間の鄙びた温泉街でした。
最近は年賀状に、俳句や和歌を書いて送っているのですが、ここ半年ほど感性が弱っていて、絵画や彫刻を見ても感じるところ少なく、自然という創造の源泉からも離れている日々ですから、以前の様にいざ書こうとなっても、心の中からも自分の日記帳からも、吸い上げてくるところがありません。
とりあえず外に出て冷たい空気を吸いながら、川沿いに歩き、山間の風景を眺めたりしました。今年は暖冬と言うことで雪がちっとも積もっていないのですが、正月を近くにやっと雪が舞い降り始めてきていて、冬だけに見られる樹花の世界が徐々に現れ始めているところでした。
昨年はこの風景からも詩が生まれ、歩いているだけで昔読んだ絵本や童話の場面などが浮かんできた事を考えると、やはり普段生活している環境というのは重要であり、今の生活は反省すべきであると思い知らされます。
そうして温泉街が途切れるまで歩いてから宿に戻り、コタツに入って足を組んでからは再び新しい年の事や友人のことなどを考えて、手元の年賀状を見つめました。

かまくら

私は毎年、寄付金付き年賀はがきを買っているのですが、今年の東北版の絵は、三浦俊道さんという書家さんの書いた「かまくら」でした。
書というものの味わい方は分かりませんが、この絵に描かれたかまくらは筆が太く、雪という変幻なものを太い軸足でこの形に定めさせたという力強さです。両手の親指と親指、人差し指と人差し指を意図しないで付け合わせると輪ができますが、それをこの書と重ねると、そこに含まれる力の強さを感じます。
雪の降る窓の脇でこのかまくらの筆の運びをなぞっていくと、息を殺したような寂静の呼吸に自分も変わっていき、頭から吸われた白い息が脚の爪先から手の指先までを透徹な気で張り巡らさせ、この空の雪音を地上の全神経に響かせてくるようです。
私は畳の部屋の中で腕の先の手の指と筆をそのようにいじりながら、どこか遠い彼方にある雪で山容が覆われたような風景を考えていました。本当に美しいものとは、何処か氷に覆われた雪渓の中にあるのではないかと。
私はその透徹な風景の中に、以前に読んだ本の言葉を思いだしました。その言葉は年賀状に添える言葉としては的を射ていないのですが、今の私の心境としてその言葉をなぞり、知り合いに宛てた年賀状の言葉とすることにしました。

ユーカラ

その言葉とは、岩波文庫の「アイヌ神謡集 (岩波文庫)」という本の言葉で、

銀の滴降る降るまわりに、
金の滴降る降るまわりに。」という歌を私は歌いながら

というものです。
この本は、アイヌ民族の間で語り伝えられてきたユーカラ(詞曲)のうち、神が主人公となって自らを語る神のユーカラ(神謡)が収められたもので、神として、フクロウ、キツネ、ウサギ、カエルなどが出てきます。
神について語った神話は世界中にありますが、それらの伝え方は、例えば「神は土くれで人の形を造り、鼻の孔に生命の息を吹き込んだ。」(旧約聖書)のように、神のことが三人称で語られるのがほとんどであり、このように神が一人称で自分のことを話していくのは珍しいものです。
それゆえに、様々な動物(神)からの視点で世界の姿・自然・人の社会について語られており、人間にとって神はどのようなものか、ではなく、神にとって人間はどのようなものか、という視点も語られています。
また、アイヌの社会での神と人間は、どちらも絶対的なものではなく、互いのことを分かり合い助け合っているという関係にあります。そしてその中で語られる幸福な大地としての北海道の自然は、童話の世界のように美しく、その言葉の一つ一つが銀の滴のように自然から私たちに与えられていると感じさせてくれます。

かまくら

私はその言葉を、かまくらの絵に対するものに旋律を変え、

国の岬、山の麓、
銀の滴・・・
降る降るまわりに。

として今年の年賀状の詩としました。この美しい言葉の中で、私は静謐な雪景を生み出せたでしょうか。