しろばんば(1) 〜天城湯ヶ島温泉にて〜

狩野川

湯ヶ島温泉

東京生活の終わりが近づいてきた私は、こちらにいる間に訪れたい土地として、中伊豆の湯ヶ島温泉を尋ねました。この温泉は、川端康成が「伊豆の踊子 (新潮文庫)」を執筆した際に滞在していたところであり、また、井上靖の小説「しろばんば (新潮文庫)」の舞台になったところです。

旅の2日目、私は日がまだ明るいうちに、西平橋近くの「河鹿の湯」という温泉の公衆浴場に向かいました。西平の湯というと、小説「しろばんば」の中では、主人公の洪作が親戚のさき子姉や友人と一緒に通っていた浴場として登場しています。

この浴場は小説とは違い、露天ではありませんでしたが、それでも浴場が川岸に迫り出しているために眺めが良く、温泉にどっぷりと浸かりながら、川辺の景観を眺めることができます。

そしてこの川辺は、洪作の遊び場として度々登場しますが、ここからの眺めの−川中に大きな石がごろごろと居座り、豊富な水量の水がそれらの石を拭って流れる様は、小説の中で描かれているままの瑞々しい風景でした。

思うに、厳つい顔の文人墨客などは、この隠閑とした山間に身をおいて筆をとり、ふとその手を休めたときにこの外の流れを見つめつつ、滋味ある想いを深く巡らせたのでしょうか。この湯の隣には、川端康成が馴染みにしていた温泉旅館の湯本館もあり、私の頭の中にはそのような想像が、満ち足りたお湯の流れとともに浮かんできました。

旅の味わいとは、こういうことを言うのかもしれません。首までお湯に浸って湯の中に身体を伸ばし、靄で薄くなった共同湯の天井を眺めていると、身体のほぐれとともに心の緊張もほぐれ、ゆったりと落ち着いた時間を持つことができます。そしてそういう時には、この目に映る景色があるがままにすっと自分に入ってくると共に、自分自身の行動もまた客観的な視野から見つめ直すことができるのです。

しろばんば(2)〜浄連の滝〜へ>