東京生活の終わりに(3)

マツヨイグザ


(2)「道について」から|

草木と共に

私はここ東京にいる間も、休日を利用しては時々、郊外の野や山に出かけたりしていました。それは畑や田圃が点々とするぐらいの近郊だったり、中央線の先の奥多摩だったり、信州の軽井沢や長野だったり、私のやってきた東北だったりしました。

私がそこに行って何をしているのかを、周りの人が見るならば、それは植物を観察しているのであり、ハイキングをしているのであり、観光で色々な所を訪ねている事になるでしょう。そしてまた、私が誰かに週末何をしていたかを聞かれたとしても、それはそう答えることになったでしょう。

しかし実際のところ、私は特に何かをしているわけではないのです。植物を観察しているというよりは、むしろ木々のそばに腰をかけて、樹木に観照されていたのかもしれませんし、爽快な軽やかさを求めて歩いているのかといえば、むしろ何処かから私を導く風が来るのを待っていたのかもしれません。

ここで私があえて変な人間と思われるのをためらわないならば、私は別に何をするわけでもなく、ただ草や花のように、語りかけるものが語りかけるままに「そこにあった」だけなのです。形や論理的な言葉などではありません。その時々の心に映る印象を、ただあるがままに眺めていただけです。

しかしながら心に映る印象というのは、同じ季節、同じ場所に訪れたとしても、同じ様に得られるものではありませんし、ましてや他の人の心にどの様に映っているいるかは分かりません。ではそういう君の中には一体どういう世界が映っているのかと聞かれれば、それもまた曖昧で言葉として語るのは難いものです。

それでも、もしここでそういう事を、少しでも多く理解してもらおうとするなら、これまでの2年間で分かっていただけない私の言葉ではなく、そういったことを作品として−無論それは私が勝手に思っているだけですが−表現した人の作品を思い浮かべていただき、その人の言葉を借りるのが良いのではないでしょうか。

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