中原中也

冷たい夜

冬の夜に 私の心が悲しんでゐる 悲しんでゐる、わけもなく…… 心は錆《さ》びて、紫色をしてゐる。 丈夫な扉の向ふに、 古い日は放心してゐる。 丘の上では 棉《わた》の実が罅裂《はじ》ける。 此処《ここ》では薪が燻《くすぶ》つてゐる、 その煙は、自分自…

秋の日

磧《かはら》づたひの 竝樹《なみき》の 蔭に 秋は 美し 女の 瞼《まぶた》 泣きも いでなん 空の 潤《うる》み 昔の 馬の 蹄《ひづめ》の 音よ 長の 年月 疲れの ために 国道 いゆけば 秋は 身に沁《し》む なんでも ないてば なんでも ないに 木履《ぼくり…

冬の日の記憶

昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、 夜になつて、急に死んだ。 次の朝は霜が降つた。 その子の兄が電報打ちに行つた。 夜になつても、母親は泣いた。 父親は、遠洋航海してゐた。 雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。 北風は往還を白くして…

この小児

コボルト空に往交《ゆきか》へば、 野に 蒼白の この小児。 黒雲空にすぢ引けば、 この小児 搾《しぼ》る涙は 銀の液…… 地球が二つに割れゝばいい、 そして片方は洋行すればいい、 すれば私はもう片方もう片方に腰掛けて 青空をばかり―― 花崗の巌《いはほ》…

幼獣の歌

黒い夜草深い野にあつて、 一匹の獣《けもの》が火消壺《ひけしつぼ》の中で 燧石《ひうちいし》を打つて、星を作つた。 冬を混ぜる 風が鳴つて。 獣はもはや、なんにも見なかつた。 カスタニェットと月光のほか 目覚ますことなき星を抱いて、 壺の中には冒…

夏の夜

あゝ 疲れた胸の裡《うち》を 桜色の 女が通る 女が通る。 夏の夜の水田《すゐでん》の滓《おり》、 怨恨は気が遐《とお》くなる ――盆地を繞《めぐ》る山は巡るか? 裸足《らそく》はやさしく 砂は底だ、 開いた瞳は おいてきぼりだ、 霧の夜空は 高くて黒い…

春の日の歌

流《ながれ》よ、淡《あは》き 嬌羞《きようしゆう》よ、 ながれて ゆくか 空の国? 心も とほく 散らかりて、 ヱヂプト煙草 たちまよふ。 流よ、冷たき 憂ひ秘め、 ながれて ゆくか 麓までも? まだみぬ 顔の 不可思議の 咽喉《のんど》の みえる あたりま…

春は土と草とに新しい汗をかゝせる。 その汗を乾かさうと、雲雀《ひばり》は空に隲《あが》る。 瓦屋根今朝不平がない、 長い校舎から合唱は空にあがる。 あゝ、しづかだしづかだ。 めぐり来た、これが今年の私の春だ。 むかし私の胸摶《う》つた希望は今日…

雨の日

通りに雨は降りしきり、 家々の腰板古い。 もろもろの愚弄の眼《まなこ》は淑《しと》やかとなり、 わたくしは、花弁《くわべん》の夢をみながら目を覚ます。 * 鳶色《とびいろ》の古刀の鞘《さや》よ、 舌あまりの幼な友達、 おまへの額は四角張つてた。 …

六月の雨

またひとしきり 午前の雨が 菖蒲《しようぶ》のいろの みどりいろ 眼《まなこ》うるめる 面長き女《ひと》 たちあらはれて 消えてゆく たちあらはれて 消えゆけば うれひに沈み しとしとと 畠《はたけ》の上に 落ちてゐる はてしもしれず 落ちてゐる お太鼓…

三歳の記憶

縁側に陽があたつてて、 樹脂《きやに》が五彩に眠る時、 柿の木いつぽんある中庭《には》は、 土は枇杷《びは》いろ 蝿《はへ》が唸《な》く。 稚厠《おかは》の上に 抱へられてた、 すると尻から 蛔虫《むし》が下がつた。 その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くの…

青い瞳

1 夏の朝 かなしい心に夜が明けた、 うれしい心に夜が明けた、 いいや、これはどうしたといふのだ? さてもかなしい夜の明けだ! 青い瞳は動かなかつた、 世界はまだみな眠つてゐた、 さうして『その時』は過ぎつつあつた、 あゝ、遐《とお》い遐いい話。 …

今宵月【めう】荷《が》を食ひ過ぎてゐる 済製場《さいせいば》の屋根にブラ下つた琵琶《びわ》は鳴るとしも想へぬ 石炭の匂ひがしたつて怖《おぢ》けるには及ばぬ 灌木がその個性を砥《と》いでゐる 姉妹は眠つた、母親は紅殻色《べんがらいろ》の格子を締…

早春の風

けふ一日《ひとひ》また金の風 大きい風には銀の鈴 けふ一日また金の風 女王の冠さながらに 卓《たく》の前には腰を掛け かびろき窓にむかひます 外吹く風は金の風 大きい風には銀の鈴 けふ一日また金の風 枯草の音のかなしくて 煙は空に身をすさび 日影たの…

夜更の雨

――ベルレーヌの面影―― 雨は 今宵も 昔 ながらに、 昔 ながらの 唄を うたつてる。 だらだら だらだら しつこい 程だ。 と、見るベル氏の あの図体《づうたい》が、 倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。 倉庫の 間にや 護謨合羽《かつぱ》の 反射《ひかり》だ。 そ…

むなしさ

臘祭《ろうさい》の夜の 巷《ちまた》に堕《お》ちて 心臓はも 条網に絡《から》み 脂《あぶら》ぎる 胸乳《むなぢ》も露《あら》は よすがなき われは戯女《たはれめ》 せつなきに 泣きも得せずて この日頃 闇を孕《はら》めり 遐《とお》き空 線条に鳴る …

含羞

なにゆゑに こゝろかくは羞《は》ぢらふ 秋 風白き日の山かげなりき 椎の枯葉の落窪に 幹々は いやにおとなび彳《た》ちゐたり 枝々の 拱《く》みあはすあたりかなしげの 空は死児等の亡霊にみち まばたきぬ をりしもかなた野のうへは あすとらかんのあはひ…

在りし日の歌

在りし日の歌

目次 在りし日の歌 含羞 むなしさ 夜更の雨 早春の風 月 青い瞳 三歳の記憶 六月の雨 雨の日 春 春の日の歌 夏の夜 幼獣の歌 この小児 冬の日の記憶 秋の日 冷たい夜 冬の明け方 老いたる者をして 湖上 冬の夜 秋の消息 骨 秋日狂乱 朝鮮女 夏の夜に覚めてみ…

いのちの声

もろもろの業《わざ》、太陽のもとにては蒼《あを》ざめたるかな。 ――ソロモン 僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。 あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。 僕は雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。 僕に押寄せてゐるもの…

憔悴

Pour tout homme, il vient une epoque ou l'homme languit. ――Proverbe. Il faut d'abord avoir soif…… ――Catherine de Medicis. 私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた 起きれば愁《うれ》はしい 平常《いつも》のおもひ 私は、悪い意思をもつてゆめ…

羊の歌

安原喜弘に Ⅰ 祈 り 死の時には私が仰向《あふむ》かんことを! この小さな顎《あご》が、小さい上にも小さくならんことを! それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、 罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。 あゝ、その時私の仰向かんことを! せめて…

羊の歌

時こそ今は……

時こそ今は花は香炉に打薫じ ボードレール 時こそ今は花は香炉に打薫《うちくん》じ、 そこはかとないけはひです。 しほだる花や水の音や、 家路をいそぐ人々や。 いかに泰子、いまこそは しづかに一緒に、をりませう。 遠くの空を、飛ぶ鳥も いたいけな情け…

生ひ立ちの歌

Ⅰ 幼年時 私の上に降る雪は 真綿《まわた》のやうでありました 少年時 私の上に降る雪は 霙《みぞれ》のやうでありました 十七―十九 私の上に降る雪は 霰《あられ》のやうに散りました 二十―二十二 私の上に降る雪は 雹《ひよう》であるかと思はれた 二十三 …

雪の宵 

青いソフトに降る雪は 過ぎしその手か囁《ささや》きか 白秋 ホテルの屋根に降る雪は 過ぎしその手か、囁《ささや》きか ふかふか煙突煙《けむ》吐いて、 赤い火の粉も刎《は》ね上る。 今夜み空はまつ暗で、 暗い空から降る雪は…… ほんに別れたあのをんな …

修羅街輓歌

関口隆克に 序歌 忌《いま》はしい憶《おも》ひ出よ、 去れ! そしてむかしの 憐みの感情と ゆたかな心よ、 返つて来い! 今日は日曜日 縁側には陽が当る。 ――もういつぺん母親に連れられて 祭の日には風船玉が買つてもらひたい、 空は青く、すべてのものは…

1 昨日まで燃えてゐた野が 今日茫然として、曇つた空の下《もと》につづく。 一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ 秋蝉は、もはやかしこに鳴いてゐる、 草の中の、ひともとの木の中に。 僕は煙草を喫ふ。その煙が 澱《よど》んだ空気の中をくねりながら昇る。…

つみびとの歌

阿部六郎に わが生は、下手な植木師らに あまりに夙《はや》く、手を入れられた悲しさよ! 由来わが血の大方は 頭にのぼり、煮え返り、滾《たぎ》り泡だつ。 おちつきがなく、あせり心地に、 つねに外界に索《もと》めんとする。 その行ひは愚かで、 その考…