中原中也

あばずれ女の亭主が歌つた

おまへはおれを愛してる、一度とて おれを憎んだためしはない。 おれもおまへを愛してる。前世から さだまつてゐたことのやう。 そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ もう長年の習慣だ。 それなのにまた二人には、 ひどく浮気な心があつて、 …

幻影

私の頭の中には、いつの頃からか、 薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、 それは、紗《しや》の服なんかを着込んで、 そして、月光を浴びてゐるのでした。 ともすると、弱々しげな手付をして、 しきりと 手真似をするのでしたが、 その意味が、つひぞ通じた…

一つのメルヘン

秋の夜は、はるかの彼方《かなた》に、 小石ばかりの、河原があつて、 それに陽は、さらさらと さらさらと射してゐるのでありました。 陽といつても、まるで硅石《けいせき》か何かのやうで、 非常な個体の粉末のやうで、 さればこそ、さらさらと かすかな音…

ゆきてかへらぬ

――京 都―― 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺《ゆす》つてゐた。 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車《うばぐるま》、いつも街上に停《とま》つてゐた。 棲む人達は子供等は、…

永訣の秋

蜻蛉に寄す

あんまり晴れてる 秋の空 赤い蜻蛉《とんぼ》が 飛んでゐる 淡《あは》い夕陽を 浴びながら 僕は野原に 立つてゐる 遠くに工場の 煙突が 夕陽にかすんで みえてゐる 大きな溜息 一つついて 僕は蹲《しやが》んで 石を拾ふ その石くれの 冷たさが 漸《ようや…

曇天

ある朝 僕は 空の 中に、 黒い 旗が はためくを 見た。 はたはた それは はためいて ゐたが、 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 綱も なければ それも 叶《かな》はず、 旗は はたはた はためく ばかり、 空の 奥処《おくが》…

春宵感懐

雨が、あがつて、風が吹く。 雲が、流れる、月かくす。 みなさん、今夜は、春の宵《よひ》。 なまあつたかい、風が吹く。 なんだか、深い、溜息が、 なんだかはるかな、幻想が、 湧くけど、それは、掴《つか》めない。 誰にも、それは、語れない。 誰にも、…

独身者

石鹸箱《せつけんばこ》には秋風が吹き 郊外と、市街を限る路の上には 大原女《おはらめ》が一人歩いてゐた ――彼は独身者《どくしんもの》であつた 彼は極度の近眼であつた 彼はよそゆきを普段に着てゐた 判屋奉公したこともあつた 今しも彼が湯屋から出て来…

わが半生

私は随分苦労して来た。 それがどうした苦労であつたか、 語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。 またその苦労が果して価値の あつたものかなかつたものか、 そんなことなぞ考へてもみぬ。 とにかく私は苦労して来た。 苦労して来たことであつた! そして、今、此…

雪の賦

雪が降るとこのわたくしには、人生が、 かなしくもうつくしいものに―― 憂愁にみちたものに、思へるのであつた。 その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、 大高源吾《おおたかげんご》の頃にも降つた…… 幾多《あまた》々々の孤児の手は、 そのためにかじか…

除夜の鐘

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 千万年も、古びた夜《よる》の空気を顫《ふる》はし、 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 それは寺院の森の霧《きら》つた空…… そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。 それは寺院の森の霧つた空…… その時子供は父母…

残暑

畳の上に、寝ころばう、 蝿《はへ》はブンブン 唸つてる 畳ももはや 黄色くなつたと 今朝がた 誰かが云つてゐたつけ それやこれやと とりとめもなく 僕の頭に 記憶は浮かび 浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち いつしか 僕は眠つてゐたのだ 覚めたのは 夕方ち…

思ひ出

お天気の日の、海の沖は なんと、あんなに綺麗なんだ! お天気の日の、海の沖は まるで、金や、銀ではないか 金や銀の沖の波に、 ひかれひかれて、岬《みさき》の端に やつて来たれど金や銀は なほもとほのき、沖で光つた。 岬の端には煉瓦工場が、 工場の庭…

お道化うた

月の光のそのことを、 盲目少女《めくらむすめ》に教へたは、 ベートーベンか、シューバート? 俺の記憶の錯覚が、 今夜とちれてゐるけれど、 ベトちやんだとは思ふけど、 シュバちやんではなかつたらうか? 霧の降つたる秋の夜に、 庭・石段に腰掛けて、 月…

閑寂

なんにも訪《おとな》ふことのない、 私の心は閑寂だ。 それは日曜日の渡り廊下、 ――みんなは野原へ行つちやつた。 板は冷たい光沢《つや》をもち、 小鳥は庭に啼《な》いてゐる。 締めの足りない水道の、 蛇口の滴《しづく》は、つと光り! 土は薔薇色《ば…

頑是ない歌

思へば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ 港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気《ゆげ》は今いづこ 雲の間に月はゐて それな汽笛を耳にすると 竦然《しようぜん》として身をすくめ 月はその時空にゐた それから何年経つたことか 汽笛の湯気を茫然と 眼で追ひかな…

北の海

海にゐるのは、 あれは人魚ではないのです。 海にゐるのは、 あれは、浪ばかり。 曇つた北海の空の下、 浪はところどころ歯をむいて、 空を呪《のろ》つてゐるのです。 いつはてるとも知れない呪。 海にゐるのは、 あれは人魚ではないのです。 海にゐるのは…

初夏の夜

また今年《こんねん》も夏が来て、 夜は、蒸気で出来た白熊が、 沼をわたつてやつてくる。 ――色々のことがあつたんです。 色々のことをして来たものです。 嬉しいことも、あつたのですが、 回想されては、すべてがかなしい 鉄製の、軋音《あつおん》さながら…

雲雀

ひねもす空で鳴りますは あゝ 電線だ、電線だ ひねもす空で啼きますは あゝ 雲の子だ、雲雀奴《ひばりめ》だ 碧《あーを》い 碧《あーを》い空の中 ぐるぐるぐると 潜《もぐ》りこみ ピーチクチクと啼きますは あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ 歩いてゆくのは菜の花…

春と赤ン坊

菜の花畑で眠つてゐるのは…… 菜の花畑で吹かれてゐるのは…… 赤ン坊ではないでせうか? いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です 菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど 走つてゆくのは、自転車々々々 向ふの道を…

夏の夜に覚めてみた夢

眠らうとして目をば閉ぢると 真ッ暗なグランドの上に その日昼みた野球のナインの ユニホームばかりほのかに白く―― ナインは各々守備位置にあり 狡《ずる》さうなピッチャは相も変らず お調子者のセカンドは 相も変らぬお調子ぶりの 扨《さて》、待つてゐる…

朝鮮女

朝鮮女《をんな》の服の紐 秋の風にや縒《よ》れたらん 街道を往くをりをりは 子供の手をば無理に引き 額顰《しか》めし汝《な》が面《おも》ぞ 肌赤銅の乾物《ひもの》にて なにを思へるその顔ぞ ――まことやわれもうらぶれし こころに呆《ほう》け見ゐたり…

秋日狂乱

僕にはもはや何もないのだ 僕は空手空拳だ おまけにそれを嘆きもしない 僕はいよいよの無一物だ それにしても今日は好いお天気で さつきから沢山の飛行機が飛んでゐる ――欧羅巴《ヨーロツパ》は戦争を起すのか起さないのか 誰がそんなこと分るものか 今日は…

ホラホラ、これが僕の骨だ、 生きてゐた時の苦労にみちた あのけがらはしい肉を破つて、 しらじらと雨に洗はれ、 ヌックと出た、骨の尖《さき》。 それは光沢もない、 ただいたづらにしらじらと、 雨を吸収する、 風に吹かれる、 幾分空を反映する。 生きて…

秋の消息

麻は朝、人の肌《はだへ》に追い縋《すが》り 雀らの、声も硬うはなりました 煙突の、煙は風に乱れ散り 火山灰掘れば氷のある如く けざやけ【こう】気《き》の底に青空は 冷たく沈み、しみじみと 教会堂の石段に 日向ぼつこをしてあれば 陽光《ひかり》に廻…

冬の夜

みなさん今夜は静かです 薬鑵《やかん》の音がしてゐます 僕は女を想つてる 僕には女がないのです それで苦労もないのです えもいはれない弾力の 空気のやうな空想に 女を描いてみてゐるのです えもいはれない弾力の 澄み亙《わた》つたる夜の沈黙《しじま》…

湖上

ポッカリ月が出ましたら、 舟を浮べて出掛けませう。 波はヒタヒタ打つでせう、 風も少しはあるでせう。 沖に出たらば暗いでせう、 櫂《かい》から滴垂《したた》る水の音は 昵懇《ちか》しいものに聞こえませう、 ――あなたの言葉の杜切《とぎ》れ間を。 月…

老いたる者をして

――「空しき秋」第十二 老いたる者をして静謐《せいひつ》の裡《うち》にあらしめよ そは彼等こころゆくまで悔いんためなり 吾は悔いんことを欲す こころゆくまで悔ゆるは洵《まこと》に魂《たま》を休むればなり あゝ はてしもなく涕《な》かんことこそ望ま…

冬の明け方

残んの雪が瓦に少なく固く 枯木の小枝が鹿のやうに睡《ねむ》い、 冬の朝の六時 私の頭も睡い。 烏が啼いて通る―― 庭の地面も鹿のやうに睡い。 ――林が逃げた農家が逃げた、 空は悲しい衰弱。 私の心は悲しい…… やがて薄日が射し 青空が開《あ》く。 上の上の…