石川啄木について

  • 石川啄木は明治19年(1886年)岩手県日戸村(現玉山村)に住職の息子として生まれた。中学時代から短歌に親しみ、19歳で上京し、詩壇の先輩達と交わることで詩作の道が開け、詩集「あこがれ」を出版することでいち早く詩人として注目された。しかし、故郷の父が寺の住職が追われた後は生活に困窮し、啄木も故郷に帰って代用教員などをするが、故郷での家族の状況がうまくいかず、北海道に移住して生活するなど厳しい生活の荒波のもまれた。その後再び上京し、そうした生活の日々を詩集「一握の砂」であらわし、次第に病気に蝕まれていく日々を詩集「悲しき玩具」にうたいあげ、若干27でこの世を去った詩人である。
  • 私が「一握の砂」を始めに読んだのは、小学校時代だと記憶している。その当時から逍遥した人生を送っていた私は、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」や「ひと夜さに嵐来りて築きたるこの砂山は何の墓ぞも」などの、悲哀を歌っているが、なぜかのどかな感じを受ける歌を非常に好んでいた。どこか伊豆か静岡あたりの砂浜で、暖かい日差しを受けながら、孤独に一人砂を持て遊ぶような情景を描いていた。しかし、実際は違う。
  • 啄木の生まれた岩手県玉山村は、盛岡からいわて銀河鉄道で15分程乗ったところにある。両翼を伸ばした岩手山が美しく見える村として有名だが、山に囲まれた非常に険しい気候の地域で、仙台からすると体感温度が7度は違うのではないかというそのような地域である。
  • 学生時代の啄木は住職の息子として育ち、短歌を創作し投稿するなど、創作に充実した日々を過ごし、上京した後も詩集を出版し「天才浪漫詩人」として脚光を浴び、私生活でも結婚をするなど前途洋々の様であった。
  • しかし、故郷の父が住職を追われたことで、結婚当初から啄木が一家の家計を支えなければいけなくなり、故郷に帰って小学校の代用教員とならなければならなかった。しかし、そこでストライキを先導することとなって職を辞し、一家で北海道函館へと移住し、啄木はそこで新聞社の職を得る。この函館の海が、「東海の・・・」から始まる詩の舞台である。
  • しかも、そこも安住の地ではなく、新聞社が火事にあい解散すると、小樽の新聞社につとめる。しかし意見の衝突から退社し、今度は釧路の新聞社に勤める。そして今度は創作で飯を食べていくことを決意し再び上京するのである。この間一年程であるが、厳しい社会という現実にさらされ、啄木の浪漫的な詩はうちくだかれ、啄木は流浪の人生を送る。
  • 上京した後は、小説を書いて出版社に持っていくが採用されず、再び啄木は詩を書き始める。以前のような「あこがれ」の詩ではなく、北の厳しい風に削られ、社会の波に洗われ、現実に打たれた結果、自分の生活してきたもの、そのものをぶつける詩を31行という形で書き付けたのである。その結果の「東海の・・・」の詩なのである。
  • そう考えると、情景はこんな感じだろうか。函館の砂浜で遠く下北の島々が浮かぶ、冷たく白い波が寄せては返し続ける、カモメが鳴き空はうっすらと青い、傾きかけた日差しが薄い雲を通して砂浜へとたどり着く。その砂浜を、当てもなく波のように繰返して歩き、波を正面にして座り、波の揺れが見えないような地平線を眺めながら砂をさぐるのである。とてもこの詩をのどかには読めないであろう。「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」というような感じで私は再び啄木の詩を読み返している。