太宰治の津軽について:鰺ヶ沢町(2)

今回の旅では、太宰治の紀行文「津軽 (新潮文庫)」を持参して読んでいる。このとき太宰治は36歳で、「走れメロス (新潮文庫)」など多くの有名の作品を出し心身ともに健康であった時期の作品である。故郷の津軽地方を旅行して津軽の風土について語るとともに、過去の思い出などにも触れ、最後に幼年時代の乳母であり育ての親というべき「たけ」に会いに行くという話しである。
実家の父や兄との微妙な関係や、行く先々で会う友人と酒についての記述があり、太宰治の性格に触れることが出来てとても興味深い作品でもある。その中の風土と自分の性格についての記述を引くと、「津軽人の愚昧な心から「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従うことが出来なかった。」などは、当時の津軽人の勢い高き者達をうらやみ、なかなか素直に誉めることが出来ないというような性質について太宰治は述べており、自分もまたそれに同じであると認めている。そして太宰は、当時小説の神様と呼ばれていた志賀直哉の評判について素直に褒める事が出来ず、周りから志賀直哉の事ばかり聞かれた時には、「君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言ってくれないのは、ひどいじゃないか」と本音を吐く所などがあって実に面白い。そして、志賀直哉の本を渡されて読んだ時、あら捜しをしようとしたのであるが、「「今読んだところは、少しよかった。しかし、他の作品には悪いところもある」と私は負け惜しみを言った。」などと言う所になにか、風土に根ざしたようなこれでもかというような性質を見ることも出来る。
また、太宰の酒好きについて周りはよくわきまえており、友人はいつも酒を用意して待っているのである。そして太宰は、その奥さんや家族に何か迷惑をかけているのではないかなどと考えながら、結局はしだいに都合のよいほうに考えて、酒を飲み続けていくのである。例えば今別のMさんの家を訪れたときに、Mさんが不在で奥さんが出てきた時、「留守です、とおっしゃる。ちょっとお元気が無い様に見受けられた。よその家族のこのような様子を見ると、私はすぐに、ああ、これは、僕の事で喧嘩をしたんじゃないかな?と思ってしまう癖がある」などと勘ぐっておきながら、Mさんが戻って来てお酒を飲もうという話になり、奥さんが黙ってお銚子を持ってきたときには、「この奥さんは、もともと無口な人なのであって、別に僕たちに対して怒っているのでは無いのかもしれない、と私は自分に都合のいいように考え直し」という所など、自分でしっかりわかっているのに、なんとなく納得させておいて、結局残らず酒を飲むことになるのである。
この後、太宰治の性格と私の性格について書いていくと、たまたま見てくれた人も、長くなって読みたくなくなるだろうから、一つだけにして話を本題へと進める。私もなかなか人の事を心よく褒める事が出来ない。何かあら捜しなどをして、それはたまたまうまくいったのではないか、いつもならこうなるはずだ、などと思ってしまう恥ずかしい人間である。石川啄木も「こころよく 人を讃めてみたくなりけり 利己の心に倦めるさびしさ」と読んでいて、非常に共感できる所であり、こういったのは皆にあるものなのか、それとも東北に根深いものであるのかはよくわからない。