太宰治の疑問:鰺ヶ沢町(3)

さて、私が鰺ヶ沢町に寄るのは、知人がいて用事があっての事である。太宰治はこの鰺ヶ沢町で降りて、3ページであるが文章を残している。そして太宰の文章を読むと、鰺ヶ沢の地名の由来が疑問として残っており、いや太宰治の疑問が残っているのではなくて、読むと疑問が残るという事なのであるが、今回はそれをもう少し調べてみる。
まず鰺ヶ沢町について述べよう。鰺ヶ沢町青森県の西海岸に位置し、北は日本海に面し、南は白神山系を有している。1491年には津軽藩始祖大浦光信公が種里に入部し、藩政時代には津軽藩の御用港として栄え、海上交通の門戸として重要な位置を占めていたそうである。交通としては、弘前から五能線で1時間強の位置にある。
さて、太宰治鰺ヶ沢の記述はあまり良い事を書いてはいない、評価として「この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄いっても、同じような町並みが何の変化もなく、だらだらと続いているのである。〜町の中心というものが無いのである。〜扇のかなめがこわれて、ばらばらに、ほどけている感じだ。」としている。しかし、実際に町を歩いてみると、最近は寂れた商店街が多いなかで、未だに細長く商店街が連なっており、店は総じて開いている。町の規模からするとこの商店街は、かなり大きいのではないだろうか。時代が変わると評価も変わってくるかもしれない。
駅前で町の人に鰺ヶ沢の地名の由来について尋ねてみたのだが、どうもらちが明かないので、資料のありそうな場所を探してみる。商店街を海へと歩いていくと、海の駅という道の駅があったのだが、そこは出身力士である「舞の海」を中心とした相撲の記念館であったので他をあたる。さらに歩いていくと、煙突は無いが都会のごみ焼却場級の大きさの建物が見えるのでそちらに向かってみる。この建物は日本海拠点館という建物で、津軽の玄関として日本海交流の拠点となるべく、その存在をアピールするシンボルとして、また、文化芸術活動、国際交流、情報発信の拠点として整備しているそうである。
入った時には何のイベントも行っていなかったが、アジロックフェスティバルの出場バンド募集のポスターが目に付いた。2階フロアが図書館となっているので、そこで調べることにする。20年ほど前に編集された鰺ヶ沢町史を読んでみると、浪岡の北畠氏が天保年間(1532-1555)に作成した「津軽郡中名字」畠和郡に、鰺ヶ沢の名前が初めて出てくるとある。町史を読み進めていったが、どうも該当する箇所は無いらしく、なにか参考になる物はないかと、図書館の美人司書さんに尋ねると、2冊の冊子を紹介される。
「ふるさとあじがさわ」鰺ヶ沢町制施行100年記念(H2年)という本によると、結局は色々な説がありあまりよくわかっていないらしい。昔は、鮫が浦(さめがうら)、鰺屋沢(あじやさわ)と言ったとか、鰺がたくさんとれたからとか(町の人に今を聞くと、イカはたくさん取れるが鰺はそれ程ではないという)、一丁目の沢に芦(あし)が生えていたから芦ヶ沢(あしがさわ)といってたのが鰺ヶ沢になったとかの説が述べられていた。また「続・ふるさとあじがさわ」(S48年)によると、他に、小川に鰺が沢山上って来たので鰺ヶ沢とか、また魚の「あじ」といっても、「あじ」と言う水鳥もおり、魚の「ハタハタ」の事を「おきあじ」とも言うと記載されている。まあ、地名の由来なんて明確にはわからないものかもしれない。以前花巻に出かけたときも、花巻の由来について諸説いろいろ記載されていた。
結局そんな所ででした。この日本海拠点館までの道のりまでには海水浴場がある。道路から海水浴場に行くためには、1mの積雪の公園を行かなくてはならず、海の側に行くのは諦めていたが、この駐車場の裏手が崖になっており、日本海を間近に見ることが出来た。不老不死を出た時よりも晴れ間は広がっており、空の中に雲が居ると言える様な青さの空になってきた。しかし、海だというのに風もなく、雲を見つめていても動いていないようで、冷えついた空気に時も、凍っているような不思議な光景であった。(詩「ひょうけつ」