鄙の家

九州の旅に出て
私は油布《ゆふ》の嶺を越えた
嶺の霧は深かつた
麓の村の
霧のなかで
娘が水を汲んでゐた
いづこの農家の庭にも咲く
紅い叢花《くさばな》
霧のなかで
娘が花を摘んでゐた
身も心も淡く濡れそぼつて

村のはづれでは
若者の歌が
夕べの雲のやうに湧いてきて
歌のひとふしが
唯一人の心に通ふやうにと
鹿のやうに
たくましい若者であつた

九州の旅は
私の足元から
草に置く朝露が
陽《ひ》に目覚めて行つた
私は思ひ出せない
あの一《ひと》ふしの歌が
思ひ出せない
今 耳もとに囁くものは
或は かりそめの
私の感傷であらうか

――私の思ひは湯の滝山の
朝の霧よりまだ深い……

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