錦木塚

(昔みちのくの鹿角《かづの》の郡に女ありけり。よしある家の流れなればか、かかる辺《へ》つ国はもとより、都にもあるまじき程の優れたる姿なりけり。日毎に細布織る梭の音にもまさりて政子となむ云ふなる其名のをちこちに高かりけり。隣の村長が子いつしかみそめていといたう恋しにけるが、女はた心なかりしにあらねど、よしある家なれば父なる人のいましめ堅うて、心ぐるしうのみ過してけり。長の子ところの習はしのままに、女の門に錦木を立つる事千束に及びぬ。ひと夜一本の思ひのしるし木、千夜を重ねては、いなかる女もさからひえずとなり。やがて千束に及びぬれど政子いつかなうべなふ様も見えず。男遂に物ぐるほしうなりて涙川と云ふに身をなくしてけり。政子も今は思ひえたえずやなりけむ、心の玉は何物にも代へじと同じところより水に沈みにけり。村人共二人のむくろを引き上げて、つま恋ふ鹿をしぬび射にするやつばら乍らしかすがにこのことのみにはむくつけき手にあまる涙もありけむ、ひとつ塚に葬りりて、にしき木塚となむ呼び伝へける。花輪の里より毛馬内への路すがら今も旅するひとは、涙川の橋を渡りて程もなく、草原つづきの丘の上に、大きなる石三つ計り重ねて木の柵など結ひたるを見るべし。かなしとも悲しき物語のあとかた、草かる人にいづこと問へばげにそれなりけり。伝へいふ、昔年々に都へたてまつれる陸奥《みちのく》の細布と云ふもの、政子が織り出しけるを初めなりとかや。)

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