しらべの海

     (上野女史に捧げたる)

淡紅《とき》染《ぞ》め卯月《うつき》の日に酔ふ香樺《にほひかば》の
律調《しらべ》のあけぼの漸やく春ぞ老いて、
歌声《うたごゑ》うるむや、柔音《やはね》の海に深く
古世《ふるよ》の思をうかべぬ。──ああほのぼの、
ゆらめく芸《たくみ》の焔の波の中に、
花摺被衣《はなずりかつぎ》よ、行きても猶透《す》きつつ、
《心は悵みぬ、ああその痛き姿。》
五百年《いほとせ》あらたに沈淪《ほろ》べる愛を呼ばふ。
凝《こ》りては瞳《ひとみ》の暫《しば》しも動きがたく、
芸《たくみ》の燭火《ともしび》しづかに我を導《ひ》きて、
透影《すいかげ》羽衣《はごろも》光の海にわしる。
見よ今、やはら手転《でてん》ずる楽《がく》の姫が
眼光《まなざし》みなぎる天路《あまぢ》の夢の匂《にほ》ひ、
光の揺曳《さまよひ》流るる律調《しらべ》の海。

(甲辰五月十五日) 

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