山彦

花草《はなぐさ》啣《ふく》みて五月《さつき》の杜《もり》の木蔭《こかげ》
囀《てん》ずる小鳥に和《あは》せて歌ひ居れば、
伴奏《ともない》仄《ほの》かに、夕野の陽炎《かげろふ》なし、
『夢なる谷』より山彦《やまひこ》ただよひ来る。──
春日《はるび》の小車《をぐるま》沈《しづ》める轍《わだち》の音《ね》か、
はた彼《か》の幼時《えうじ》の追憶《おもひで》声と添ふか。──
緑の柔息《やはいき》深くも胸に吸《す》ひて、
黙《もだ》せば、猶且つ無声《むせい》にひびき渡る。

ああ汝《なれ》、天部《てんぶ》にどよみて、再《ま》た落ち来《こ》し
愛歌《あいか》の遺韻《ゐいん》よ。さらずば地《つち》の心《しん》の
琅【かん】*1《ろうかん》無垢《むく》なる虚洞《うつろ》のかへす声よ。
山彦! 今我れ清らに心明《あ》けて
ただよふ光の見えざる影によれば、
我が歌却《かえ》りて汝《な》が響《ね》の名残《なごり》伝ふ。

(甲辰二月十七日) 

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*1:「たまへん」に「干」