落瓦の賦

   (幾年の前なりけむ、猶杜陵の学舎にありし頃、秋
   のひと日友と城外北邱のほとりに名たゝる古刹を訪
   ひて、菩提老樹の風に嘯《うそぶ》ぶく所、琴者胡弓を按じて
   沈思頗《すこぶ》る興に入れるを見たる事あり。年進み時流れ
   て、今寒寺寂心の身、一夕銅鉦の揺曳に心動き、追懐
   の情禁じ難く、乃ち筆を取りてこの一編を草しぬ。)

時の進みの起伏《おきふし》に
(かの音沈む磬《けい》に似て、)
反《そ》れて千年《ちとせ》をかへらざる
法《のり》の響《ひゞき》を、又更に、
灰《はい》冷《ひ》えわたる香盤《かうばん》の
前に珠数《じゆず》繰《く》る比丘尼《びくに》らが
細き唱歌《しようか》に呼ぶ如く、
今、草深き秋の庭、
夕べの鐘のただよひの
幽《かす》かなる音をともなひて、
古《ふ》りし信者《しんじや》の名を彫《ゑ》れる
苔《こけ》も彩《あや》なき朽瓦《くちがはら》、
遠き昔の夢の跡
語る姿の悵《いた》ましう
落ちて脆《もろ》くも砕けたり。

立つは伽藍《がらん》の壁の下《もと》、──
雨に、嵐に、うたかたの
罪の瞳を打とぢて
胸の鏡《かゞみ》に宿りたる
三世《さんぜ》の則《のり》の奇《く》しき火を
怖れ尊とみ手を合はせ
うたふて過ぎし天《あめ》の子《こ》の
袖に摺《す》れたる壁の下《もと》。──
ゆうべ色なく光なく
白く濁れる戸に凭《よ》りて、
落ちし瓦《かはら》の破片《かけ》の上
旅の愁の影淡う
長き袂を曳《ひ》きつつも、
転手《てんじゆ》やはらに古琴《ふるごと》の
古調一弾《こちやういちだん》、いにしへを
しのぶる歌を奏《かな》でては、
この世も魂《たま》ももろともに
沈むべらなる音《ね》の名残
わづかに動く菩提樹《ぼだいじゆ》の
千古の老《おひ》のうらぶれに
咽《むせ》ぶ百葉《もゝは》を見あぐれば、
古世《ふるよ》の荒廃《すさみ》いと重く
新たに胸の痛むかな。

あはれ、白蘭《はくらん》谷ふかく
馨《かほ》るに似たる香《かう》焚《た》いて、
紫雲《しうん》の法衣《はふえ》揺《ゆ》れぬれば、
起る鉦皷《しやうこ》の荘厳《おごそか》に
寂《さ》びあるひびき胸に泌《し》み、
すがた整《とゝの》ふ金龍《こんりゆう》の
燭火《ともし》の影に打ゆらぐ
宝樹の柱、さては又
ゆふべゆふべを白檀《びやくだん》の
薫《かほ》りに燻《けぶ》り、虹を吐く
螺鈿《らでん》の壁の堂の中、
無塵《むじん》の衣《ころも》帯《おび》緩《ゆる》う
慈眼《じげん》涙にうるほへる
長老《ちやうらう》の呪《じゆ》にみちびかれ、
裳裾《もすそ》静かにつらなりて、
老若《らうにやく》の巡礼《じゆんれい》群《むれ》あまた、
香華《かうげ》ささぐる子も交《まじ》り、
礼讃《らいさん》歌ふ夕《ゆふ》の座《ざ》の
百千《もゝち》の声のどよみては、
法《のり》の栄光《さかえ》の花降らし、
春の常影《とかげ》の瑞《みづ》の雲
靆《なび》くとばかり、人心
融《と》けて、浄土《じやうど》の寂光《じやくくわう》を
さながら地《つち》に現《げn》じけむ
驕盛《ほこり》の跡はここ乍ら、
(信《しん》よ、荒磯《ありそ》の砂の如、
もとの深淵《ふかみ》にかくれしか、
果《は》たや、流転の『時』の波
法《のり》の山をも越えけむか。)
残《のこ》んの壁のたゞ寒く、
老樹《らうじゆ》むなしく黙《もく》しては、
人香《ひとが》絶《た》えたる霊跡《れいぜき》に
再び磬《けい》の音もきかず、
落つる瓦のたゞ長き
破壊《はゑ》の歴史に砕けたり

似たる運命《さだめ》よ、落瓦《おちがはら》。
(めぐるに速き春の輪の
いつしか霜にとけ行くを、)
ああ、ああ我も琴の如、──
暗と惑ひのほころびに
ただ一条《ひとすじ》のあこがれの
いのちを繋《つな》ぐ光なる、──
その絃《いと》もろく断《た》へむ日は、
弓弦《ゆづる》はなれて鵠《かう》も射《ゐ》ず、
ほそき唸《うな》りをひびかせて
深野《ふけの》に朽つる矢の如く、
はてなむ里《さと》よ、そも何処。

琴を抱いて、目をあげて、
無垢《むく》の白蓮《しらはす》、曼陀羅華《まんだらげ》、
靄と香を吹き霊の座を
めぐると聞ける西の方、
涙のごひて眺むれば、
澄みたる空に秋の雲
今か黄金《こがね》の色流し、
空廊《くろう》百代《もゝよ》の夢深き
伽藍《がらん》一夕《いつせき》風もなく
俄《には》かに壊《くづ》れほろぶ如、
或は天授《てんじゆ》の爪《つま》ぶりに
一生《ひとよ》の望《のぞ》み奏《かな》で了《を》へし
巨人《きよじん》終焉《をはり》に入る如く、
暗の戦呼《さけび》をあとに見て、
光の幕《まく》を引き納《をさ》め、
暮輝《ゆふひ》天路《てんろ》に沈みたり。

(甲辰二月十六日夜) 

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