アカシヤの蔭

たそがれ淡き揺曳《さまよひ》やはらかに、
収《をさ》まる光暫しの名残なる
透影《すいかげ》投げし碧《みどり》の淵《ふち》の上、
我ただひとり一日《ひとひ》を漂へる
小舟《をぶね》を寄せて、アカシヤ夏の香の
木蔭《こかげ》に棹《かひ》をとどめて休《やす》らひぬ。

流れて涯《はて》も知らざる大川《おほかは》の
暫しと淀《よど》む翠江《みどりえ》夢の淵!
見えざる霊の海原花岸の
ふる郷《さと》とめて、生命《いのち》の大川に
ひねもす浮びただよふ夢の我!
夢こそ暫し宿れるこの岸に
ああ夢ならぬ香りのアカシヤや。

野末《のずへ》に匂ふ薄月《うすづき》しづかなる
光を帯びて、微風《そよかぜ》吹く毎に、
英房《はなぶさ》ゆらぎ、真白の波湧けば、
みなぎる薫《かほ》りあまきに蜜の蜂
群《む》るる羽音は暮れゆく野の空に
猶去りがての呟《つぶ》やき、夕《ゆふ》の曲《きよく》。
纜《ともづな》結《ゆ》ひて忘我《われか》の歩みもて、

我は上《のぼ》りぬ、アカシヤ咲く岸に。──
春の夜桜おぼろの月の窓
少女《をとめ》が歌にひかれて忍ぶ如。

ああ世の恋よ、まことに淀《よど》の上《へ》の
アカシヤ甘き匂ひに似たらずや。
いのちの川の夢なる青淵《あをぶち》に
夢ならぬ香《か》の雫《しづく》をそそぎつつ、
幻過ぐるいのちの舟よせて、
流るる心に光の鎖《くさり》なす
にほひのつきぬ思出結《むす》ぶなる。

淀める水よ、音なき波の上に
没薬《もつやく》撒《ま》くとしただるアカシヤの
その香《か》、はてなく流るる汝《な》が旅に
消ゆる日ありと誰かは知りうるぞ。
ああ我が恋よ、心の奥ふかく、
汝《なれ》が投げたる光と香りとの
(たとへ、わが舟巌《いはほ》に覆《くつが》へり、
或は暗の嵐に迷ふとも、)
沈む日ありと誰かは云ひうるぞ。

はた此の岸に溢るる平和《やはらぎ》の
見えざる光、不断の風の楽《がく》、
光と楽《がく》にさまよふ幻の
それよ、我が旅はてなむ古郷《ふるさと》の
黄金《こがね》の岸のとはなる栄光《えいくわう》と
異なるものと、誰かははかりえむ。
ああ汝《なれ》水よ、われらはふるさとの
何処なりしを知らざる旅なれば、
アカシヤの香に南の国おもひ、
恋の夢にし永遠《とは》なる世を知るも、
そは罪なりと誰かはさばきえむ。

ああ今、月は静かに万有《ものみな》を
ひろごり包み、また我心をも
光に融《と》かしつくして、我すでに
見えざる国の宮居に、アカシヤと
咲きぬるかともやはらぐ愛の岸、
無垢《むく》なる花の匂ひの幻に
神かの姿けだかき現《うつゝ》かな。

水も淀《よど》みぬ。アカシヤ香も増しぬ。
いざ我が長きいのちの大川に
我も宿らむ、暫しの夢の岸。──
暫しの夢のまたたき、それよげに、
とはなる脈《みやく》のひるまぬ進み搏《う》つ
まことの霊の住家《すみか》の証《あかし》なれ。

(甲辰六月十七日) 

目次に戻る