壁なる影

夜風《よかぜ》にうるほひ、行春《いくはる》淡き
有明燭《ありあけともし》の火影《ほかげ》ぞ揺れて、
ああ今、ほのかに、幻ふかく
起伏《おきふし》さだめぬ影こそ壁に。

詩歌《しいか》の愁ひに我が身は痩《や》せて、
くだつ夜、低唱《ていせう》、無興《ぶきやう》の窓に。
こは何、落ちくる壁なる影よ、──
静かに、静かに、捲きてはひらく。

たとへば、大海《おほうみ》青波鳴りて
涯《はて》なき涯にとただよふそれか。
或は、無終《むしう》の歴史の上に
湧き、また沈める流転《るてん》の跡か。

めぐれる影にと思は耽《ふけ》る。──
ああ今、我聞く、音なき波に
遠灘《とほなだ》どよもす響ぞこもれ、──
思の青渦《あをうづ》、とく、またゆるく。

とく、またゆるかに影こそ揺《ゆ》れば、
うかべる光に心は漂ふ。──
この影、幻、ああ聞きがたき
天海《あまうみ》『秘密』のそのおとづれか。

思は高めば、影また深く、
見えざる文《ふみ》こそ壁には照れる。──
幾夜の我が友、そよわがいのち、
秘密に泳《およ》げる我が影なりき。

燈火《ともしび》うするる。薄《うす》れよ。暗も
心の壁なる我が影消《け》さじ。
ああ我汝《な》に謝《しや》す、我が夜は明けば、
この影、まことの光に生きむ。

(甲辰六月二十日) 

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