跋文

土 岐 哀 果 

石川は遂に死んだ。それは明治四十五年四月十三日の午前九時三十分であつた。
その四五日前のことである。金がもう無い、歌集を出すやうにしてくれ、とのことであつた。で、すぐさま東雲堂に行つて、やつと話しがまとまつた。
うけとつた金を懐にして電車に乗つてゐた時の心もちは、今だに忘れられない。一生忘れられないだらうと思ふ。
石川は非常によろこんだ。氷嚢の下から、どんよりした目を光らせて、いくたびもうなづいた。
しばらくして、「それで、原稿はすぐ渡さなくてもいゝのだらうな、訂さなくちやならないところもある、癒つたらおれが整理する」と言つた。その声は、かすれて聞きとりにくかつた。
「それでもいゝが、東雲堂へはすぐ渡すといつておいた、」と言ふと、「さうか」と、しばらく目を閉ぢて、無言でゐた。
やがて、枕もとにゐた夫人の節子さんに、「おい、そこのノートをとつてくれ、――その陰気な、」とすこし上を向いた。ひどく痩せたなアと、その時僕はおもつた。
「どのくらゐある?」と石川は節子さんに訊いた。一頁に四首づゝで五十頁あるから四五の二百首ばかりだと答へると、「どれ、」と、石川は、その、灰色のラシヤ帋《がみ》の表帋をつけた中版のノートをうけとつて、ところどころ披いたが、「さうか。では、万事よろしくたのむ。」と言つて、それを僕に渡した。
それから石川は、全快したら、これこれのことをすると、苦しさうに、しかし、笑ひながら語つた。
かへりがけに、石川は、襖を閉めかけた僕を「おい」と呼びとめた。立つたまゝ「何だい」と訊くと、「おいこれからも、たのむぞ、」と言つた。
これが僕の石川に物をいはれた最後であつた。
石川は死ぬ、さうは思つてゐたが、いよいよ死んで、あとの事を僕がするとなると、実に変な気がする。
石川について、言ふとなると、あれもこれも言はなければならない。しかし、まだ、あまり言ひたくない。もつと、じつとだまつて、かんがへてゐたい。実際、石川の二十八年の一生をかんがへるには、僕の今までがあまりに貧弱に思はれてならないのである。
しかし、この歌集のことについては、も少し書いておく必要がある。
これに収めたのは、大てい雑誌や新聞に掲げたものである。しかし、こゝにはすべて「陰気」なノートに依つた。順序、句読、行の立て方、字を下げるところ、すべてノートのままである。たゞ最初の二首は、その後帋片に書いてあつたのを発見したから、それを入れたのである。第九十頁に一首空けてあるが、ノートに、あそこで頁が更めてあるから、それもそのまゝにした。生きてゐたら、訂したいところもあるだらうが、今では、何とも仕やうがない。
それから、「一利己主義者と友人との対話」は創作の第九号(四十三年十一月発行)に掲げたもの、「歌のいろいろ」は朝日歌壇を選んでゐた時、(四十三年十二月前後)東京朝日新聞社に連載したものである。この二つを歌集の後へ附けることは、石川も承諾したことである。
表題は、ノートの第一頁に「一握の砂以後明治四十三年十一月末より」と書いてあるから、それをそのまゝ表題にしたいと思つたが、それだと「一握の砂」とまぎらはしくて困ると東雲堂でいふから、これは止むをえず、感想の最後に「歌は私の悲しい玩具である」とあるのをとつてそれを表題にした。これは節子さんにも伝へておいた。あの時、何とするか訊いておけばよかつたのであるが、あの寝姿を前にして、全快後の計画を話されてはもう、そんなことを訊けなかつた。(四十五年六月九日)

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ルビは《》で示した。
旧字体新字体に直した。
親本:「石川啄木全集」筑摩書房(昭和53年)
初出:「悲しき玩具」東雲堂書店(明治45年)