緑色の笛

この黄昏の野原のなかを 耳のながい象たちがぞろりぞろりと歩いてゐる。 黄色い夕月が風にゆらいで あちこちに帽子のやうな草つぱがひらひらする。 さびしいですか お嬢さん! ここに小さな笛があつて その音色は澄んだ緑です。 やさしく歌口《うたぐち》を…

鴉毛の婦人

やさしい鴉毛の婦人よ わたしの家根裏の部屋にしのんできて 麝香のなまめかしい匂ひをみたす 貴女《あなた》はふしぎな夜鳥 木製の椅子にさびしくとまつて その嘴《くちばし》は心臓《こころ》をついばみ 瞳孔《ひとみ》はしづかな涙にあふれる 夜鳥よ この…

くづれる肉体

蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で わたしはくづれてゆく肉体の柱《はしら》をながめた それは宵闇にさびしくふるへて 影にそよぐ死《しに》びと草《ぐさ》のやうになまぐさく ぞろぞろと蛆虫の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。 ああこの影を曳く景色のなかで わ…

艶めかしい墓場

風は柳を吹いてゐます どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。 なめくぢは垣根を這ひあがり みはらしの方から生《なま》あつたかい潮みづがにほつてくる。 どうして貴女《あなた》はここに来たの やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ 貴女は貝…

題のない歌

南洋の日にやけた裸か女のやうに 夏草の茂つてゐる波止場の向うへ ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた ふはふはとした雲が白くたちのぼつて 船員のすふ煙草のけむりがさびしがつてる。 わたしは鶉のやうに羽ばたきながら さうして丈《たけ》の高い野茨の上…

恐ろしい山

恐ろしい山の相貌《すがた》をみた まつ暗な夜空にけむりを吹きあげてゐる おほきな蜘蛛のやうな眼《め》である。 赤くちろちろと舌をだして うみざりがにのやうに平つくばつてる。 手足をひろくのばして麓いちめんに這ひ廻つた さびしくおそろしい闇夜であ…

みじめな街燈

雨のひどくふつてる中で 道路の街燈はびしよびしよぬれ やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる はうはうぼうぼうとした烟霧の中を あるひとの運命は白くさまよふ そのひとは大外套に身をくるんで まづしく みすぼらしい鳶《とんび》のやうだ と…

しののめきたるまへ 家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏《にはとり》です 声をばながくふるはして さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です とをてくう、とをるもう、とをるもう。 朝のつめたい臥床《ふしど》の中で 私のたましひは羽ばたきをする この雨戸…

仏の見たる幻想の世界

花やかな月夜である しんめんたる常盤木の重なりあふところで ひきさりまたよせかへす美しい浪をみるところで かのなつかしい宗教の道はひらかれ かのあやしげなる聖者の夢はむすばれる。 げにそのひとの心をながれるひとつの愛憐 そのひとの瞳孔《ひとみ》…

憂鬱の川辺

川辺で鳴つてゐる 蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい しぜんに生えてる するどい ちひさな植物 草本《さうほん》の茎の類はさびしい 私は眼を閉ぢて なにかの草の根を噛まうとする なにかの草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために げにそこにはなに…

黒い風琴

おるがんをお弾きなさい 女のひとよ あなたは黒い着物をきて おるがんの前に坐りなさい あなたの指はおるがんを這ふのです かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。 だれがそこで唱つてゐるの だれがそこ…

夢にみる空家の庭の秘密

その空家の庭に生えこむものは松の木の類 びはの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類 さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝 またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物 およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類 地べたいちめ…

憂鬱なる花見

憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた 桜の枝はいちめんにひろがつてゐる 日光はきらきらとしてはなはだまぶしい 私は密閉した家の内部に住み 日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる その卵や肉はくさりはじめた 遠く桜のはなは酢え 桜のはなの酢えた匂ひ…

恐ろしく憂鬱なる

こんもりとした森の木立のなかで いちめんに白い蝶類が飛んでゐる むらがる むらがりて飛びめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ みどりの葉のあつぼつたい隙間から ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼《つばさ》 いつぱいに群がつてとび…

蠅の唱歌

春はどこまできたか 春はそこまできて桜の匂ひをかぐはせた 子供たちのさけびは野に山に はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。 さうして私の心はなみだをおぼえる いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ この心はさびしい この心はわかき少年の…

野原に寝る

この感情の伸びてゆくありさま まつすぐに伸びてゆく喬木のやうに いのちの芽生のぐんぐんとのびる。 そこの青空へもせいのびをすればとどくやうに せいも高くなり胸はばもひろくなつた。 たいそううららかな春の空気をすひこんで 小鳥たちが喰べものをたべ…

春の感情

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ そのにほひをかいでゐると気がうつとりとする うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情 つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ 春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのや…

月夜

重たいおほきな羽をばたばたして ああ なんといふ弱弱しい心臓の所有者だ。 花瓦斯のやうな明るい月夜に 白くながれてゆく生物の群をみよ そのしづかな方角をみよ この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ あかるい花瓦斯のやうな月夜に ああ なんといふ悲…

青猫

この美しい都会を愛するのはよいことだ この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ すべてのやさしい女性をもとめるために すべての高貴な生活をもとめるために この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ 街路にそうて立つ桜の並木 そこにも無数の雀…

その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ 指なんかはまことにほつそりとしてしながよく まるでちひさな青い魚類のやうで やさしくそよそよとうごいてゐる様子はたまらない ああ その手の上…

群集の中を求めて歩く

私はいつも都会をもとめる 都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる 群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ ああ ものがなしき春のたそがれどき 都会の入り混みたる建築と建築と…

強い腕に抱かる

風にふかれる葦のやうに 私の心は弱弱しく いつも恐れにふるへてゐる 女よ おまへの美しい精悍の右腕で 私のからだをがつしりと抱いてくれ このふるへる病気の心を しづかにしづかになだめてくれ ただ抱きしめてくれ私のからだを ひつたりと肩によりそひなが…

沖を眺望する

ここの海岸には草も生えない なんといふさびしい海岸だ かうしてしづかに浪を見てゐると 浪の上に浪がかさなり 浪の上に白い夕方の月がうかんでくるやうだ ただひとり出でて磯馴れ松の木をながめ 空にうかべる島と船とをながめ 私はながく手足をのばして寝こ…

寝台を求む

どこに私たちの悲しい寝台があるか ふつくりとした寝台の 白いふとんの中にうづくまる手足があるか 私たち男はいつも悲しい心でゐる 私たちは寝台をもたない けれどもすべての娘たちは寝台をもつ すべての娘たちは 猿に似たちひさな手足をもつ さうして白い…

薄暮の部屋

つかれた心臓は夜《よる》をよく眠る 私はよく眠る ふらんねるをきたさびしい心臓の所有者だ なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ児 寒さにかじかまる蠅のなきごゑ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。 私はかなしむ この白つぽけた室内の光線…

極光

懺悔者の背後には美麗な極光がある。 目次に戻る ルビは《》で示した。 旧字体は新字体に直した。 親本:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 (昭和50年) 初出:「蝶を夢む」新潮社(大正12年)

Omega の瞳

死んでみたまへ、屍蝋の光る指先から、お前の霊がよろよろとして昇発する。その時お前は、ほんたうにおめがの青白い瞳《め》を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。 ひとが猫のやうに見える。 目次に戻る

放火、殺人、窃盗、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。 そもそも柳が電気の良導体なることを、最初に発見せるもの先祖の中にあり。 手に兇器をもつて人畜の内臓を電裂せんとする兇賊がある。 かざされた…

吠える犬

月夜の晩に、犬が墓地をうろついてゐる。 この遠い、地球の中心に向つて吠えるところの犬だ。 犬は透視すべからざる地下に於て、深くかくされたるところの金庫を感知することにより。 金庫には翡翠および夜光石をもつて充たされたることを感応せることにより…

くさつた蛤

半身は砂のなかにうもれてゐて それでゐてべろべろと舌を出してゐる。 この軟体動物のあたまの上には 砂利や潮みづがざらざらざらざら流れてゐる ながれてゐる ああ夢のやうにしづかにながれてゐる。 ながれてゆく砂と砂との隙間から 蛤はまた舌べろをちらち…