軽井沢にて、堀辰雄の風景〜聖パウロカトリック教会

聖パウロカトリック教会


軽井沢にいます。長野県の東端、東京から新幹線で一時間程の距離です。ここはかつて四季派の詩人達が愛し・集った場所、室生犀星が別荘を構え、津村信夫信濃乙女を娶り、立原道造がヒヤシンス・ハウスの建設を夢見た地です。私はそのような場所がどんな所であったのか、一度訪れたいと思っていました。そしてこの度、遅い夏休みを取り出かける事が出来ました。
台風が近づき、あまり天候は良くありません。小雨がちらついていました。軽井沢の駅を降りて、旧軽井沢の方と歩いていきます。道沿いにお店が続き、人通りも多く、大変にぎわっています。一般的に地方の観光地に行くと、何かしらの名産・民芸品を中心として、同じような料理を出すお店、同じような商品を置いた店が軒を連ねているのですが、此処は違うようです。東京から近いため、統一性の無い都会のショッピング街のようで、すこし寂しい感じがします。
私達は更に奥の方に進み、別荘地の方へ歩いていきました。旧軽井沢から少し浅間の見える方へ歩いていくと、聖パウロカトリック教会という教会があります。「風立ちぬ」という小説をご存じでしょうか。
「胸の病にむしばまれる婚約者節子の療養のために、信州のサナトリウムへと共にやってきた主人公。主人公は信州の自然のなかで、自分が何処かの寂しい山の中で、お前みたいな可愛らしい娘と二人きりの生活を夢見ていました。二人は美しい自然の音楽が季節と共に奏でられる中で 生命の危険を感じながらも、許される限りの幸福を見いだそうしました。しかし、節子は亡くなり、主人公はその幸せの思い出を携え、かつて共にあった景色を見つめながら生きていく」、という話です。
軽井沢の豊かな動植物の季節の変化を含んでいるこの小説は、堀辰雄の作品で軽井沢を舞台としています。教会が登場するのは小説の終盤、季節は冬、主人公が亡くなった節子の思い出と共に生きるために、かつて共に過ごした地を歩んでいるところでです。冬の避暑地には人気がなくなり、雪の静けさが増す中で、まだ人が残っている教会を見付け、その中へと入っていきます。その教会が聖パウロカトリック教会です。その部分をいくつか引用します。

昔、私が好んで歩きまわった水車の道に沿って、いつか私の知らない間に、小さなカトリック教会さえ出来ていた。しかもその美しい素木造(しらきづく)りの教会は、その雪をかぶった尖(とが)った屋根の下から、すでにもう黒ずみかけた壁板すらも見せていた。〜〜
朝の九時頃、私は何を求めるでもなしにその教会へ行った。小さな蝋燭(ろうそく)の火のともった祭壇の前で、もう神父が一人の助祭と共に弥撒をはじめていた。信者でもなんでもない私は、どうして好いか分からず、唯、音を立てないようにして、一番後ろの方にあった藁(わら)で出来た椅子にそのままそっと腰を下ろした。が、やっと内のうす暗さに目が馴れてくると、それまで誰もいないものとばかり思っていた信者席の、一番前列の、柱のかげに一人黒ずくめのなりをした中年の婦人がうずくまっているのが目に入ってきた。そうしてその婦人がさっきからずっと跪(ひざま)ずき続けているらしいのに気がつくと、私は急にその会堂のなかのいかにも寒々としているのを身にしみて感じた。……
青空文庫 風立ちぬ

おそらく建物は今も変わっていないのでしょう。小さな白木造りの教会が雨に濡れて、しっとりと外壁を染めていました。近くまでショッピング街が来ているため人通りが多い中でしたが、教会から後ろは別荘地が広がり、雨に濡れた森が教会から後ろを小説の中の風景へと変えているようでもありました。冬の雪が降る頃にはきっと、私のような避暑や観光の客も減り、雪の中の静かな教会を見ることが出来るのでしょう。
教会の中へ入ると薄暗く、祭壇の辺りが灯されていました。小説に登場する藁で出来た椅子はありませんでしたが、白木造りの長椅子が祭壇から列なっていました。小説家はこの情景を書き上げたかったのかと思います。真夏であれば教会の雰囲気は少し違っているのかもしれません。その日は小雨が降り寒気のある日でした。冬になれば、山からの静けを求められる冬であれば、生と死を見つめるにふさわしいところになるのでしょう。私は教会という場所に今まで入ったことがありませんでした。教会とはこういう場所なのでしょうか、教会が自然を含んだままの。私は煌びやかな物に惹かれることはありませんが、こういった簡素で清らかな美しさに心を打たれます。