2006-07-01から1ヶ月間の記事一覧

陽春

ああ、春は遠くからけぶつて来る、 ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに、 やさしいくちびるをさしよせ、 をとめのくちづけを吸ひこみたさに、 春は遠くからごむ輪のくるまにのつて来る。 ぼんやりした景色のなかで、 白いくるまやさんの足はいそげども、 ゆく…

麦畑の一隅にて

まづ正直の心をもつて、 わたくしどもは話がしたい、 信仰からきたるものは、 すべて幽霊のかたちで視える、 かつてわたくしが視たところのものを、 はつきりと汝にもきかせたい、 およそこの類のものは、 さかんに装束せる、 光れる、 おほいなるかくしどこ…

つめたきもの生れ、 その歯はみづにながれ、 その手はみづにながれ、 潮さし行方もしらにながるるものを、 浅瀬をふみてわが呼ばへば、 貝は遠音《とほね》にこたふ。 目次に戻る

まつくろけの猫が二疋、 なやましいよるの家根のうへで、 ぴんとたてた尻尾のさきから、 糸のやうなみかづきがかすんでゐる。 『おわあ、こんばんは』 『おわあ、こんばんは』 『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』 『おわああ、ここの家の主人は病気です』 目…

ありあけ

ながい疾患のいたみから、 その顔はくもの巣だらけとなり、 腰からしたは影のやうに消えてしまひ、 腰からうへには藪が生え、 手が腐れ 身体《しんたい》いちめんがじつにめちやくちやなり、 ああ、けふも月が出で、 有明の月が空に出で、 そのぼんぼりのや…

およぐひと

およぐひとのからだはななめにのびる、 二本の手はながくそろへてひきのばされる、 およぐひとの心臓《こころ》はくらげのやうにすきとほる、 およぐひとの瞳《め》はつりがねのひびきをききつつ、 およぐひとのたましひは水《みづ》のうへの月《つき》をみ…

ばくてりやの世界

ばくてりやの足、 ばくてりやの口、 ばくてりやの耳、 ばくてりやの鼻、 ばくてりやがおよいでゐる。 あるものは人物の胎内に、 あるものは貝るゐの内臓に、 あるものは玉葱の球心に、 あるものは風景の中心に。 ばくてりやがおよいでゐる。 ばくてりやの手…

春夜

浅蜊《あさり》のやうなもの、 蛤《はまぐり》のやうなもの、 みぢんこのやうなもの、 それら生物の身体は砂にうもれ、 どこからともなく、 絹いとのやうな手が無数に生え、 手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。 あはれこの生あたたかい春の夜に、 そ…

椅子

椅子の下にねむれるひとは、 おほいなる家《いへ》をつくれるひとの子供らか。 目次に戻る

内部に居る人が畸形な病人に見える理由

わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居ります、 それがわたくしの顔をうすぼんやりと見せる理由です。 わたしは手に遠めがねをもつて居ります、 それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、 につける製の犬だの羊だの、 あたまのはげた子供たちの…

くさつた蛤

なやましき春夜の感覚とその疾患

蛙の死

蛙が殺された、 子供がまるくなつて手をあげた、 みんないつしよに、 かわゆらしい、 血だらけの手をあげた、 月が出た、 丘の上に人が立つてゐる。 帽子の下に顔がある。 幼年思慕編 目次に戻る

干からびた犯罪

どこから犯人は逃走した? ああ、いく年もいく年もまへから、 ここに倒れた椅子がある、 ここに凶器がある、 ここに屍体がある、 ここに血がある、 さうして青ざめた五月の高窓にも、 おもひにしづんだ探偵のくらい顔と、 さびしい女の髪の毛とがふるへて居…

酒精中毒者の死

あふむきに死んでゐる酒精中毒者《よつぱらひ》の、 まつしろい腹のへんから、 えたいのわからぬものが流れてゐる、 透明な青い血漿《けつしよう》と、 ゆがんだ多角形の心臓と、 腐つたはらわたと、 らうまちすの爛《ただ》れた手くびと、 ぐにやぐにやした…

危険な散歩

春になつて、 おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、 どんな粗製の歩道をあるいても、 あのいやらしい音がしないやうに、 それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる、 それがなによりけんのんだ。 さあ、そろそろ歩きはじめた、 みんなそつとしてくれ…

みつめる土地《つち》の底から、 奇妙きてれつの手がでる、 足がでる、 くびがでしやばる、 諸君、 こいつはいつたい、 なんといふ鵞鳥《がちよう》だい。 みつめる土地《つち》の底から、 馬鹿づらをして、 手がでる、 足がでる、 くびがでしやばる。 目次…

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、 くさつた波止場の月に吠えてゐる。 たましひが耳をすますと、 陰気くさい声をして、 黄いろい娘たちが合唱してゐる、 合唱してゐる。 波止場のくらい石垣で。 いつも、 なぜおれはこれなんだ、 犬よ、 青白いふしあはせの犬よ。 目次に戻る

かなしい遠景

かなしい薄暮になれば、 労働者にて東京市中が満員なり、 それらの憔悴《しようすい》した帽子のかげが、 市街《まち》中いちめんにひろがり、 あつちの市区でも、こつちの市区でも、 堅い地面を掘つくりかへす、 掘り出して見るならば、 煤ぐろい嗅煙草の銀…

悲しい月夜

焦心

霜ふりてすこしつめたき朝を、 手に雲雀料理をささげつつ歩みゆく少女あり、 そのとき並木にもたれ、 白粉《おしろい》もてぬられたる女のほそき指と指との隙間《すきま》をよくよく窺ひ、 このうまき雲雀《ひばり》料理をば盗み食べんと欲して、 しきりにも…

天景

しづかにきしれ四輪馬車、 ほのかに海はあかるみて、 麦は遠きにながれたり、 しづかにきしれ四輪馬車。 光る魚鳥の天景を、 また窓青き建築を、 しづかにきしれ四輪馬車。 目次に戻る

掌上の種

われは手のうへに土《つち》を盛り、 土のうへに種をまく、 いま白きじようろもて土に水をそそぎしに、 水はせんせんとふりそそぎ、 土のつめたさはたなごころの上にぞしむ。 ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、 われは手を日光のほとりにさしのべしが、 …

雲雀料理

ささげまつるゆふべの愛餐《あいさん》、 燭《しよく》に魚蝋《ぎよろう》のうれひを薫じ、 いとしがりみどりの窓をひらきなむ。 あはれあれみ空をみれば、 さつきはるばると流るるものを、 手にわれ雲雀の皿をささげ、 いとしがり君がひだりにすすみなむ。 …

盆景

春夏すぎて手は琥珀《こはく》、 瞳《め》は水盤にぬれ、 石はらんすゐ、 いちいちに愁ひをくんず、 みよ山水のふかまに、 ほそき滝ながれ、 滝ながれ、 ひややかに魚介はしづむ。 目次に戻る

殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。 またぴすとるが鳴る。 ああ私の探偵は玻璃《はり》の衣裳をきて、 こひびとの窓からしのびこむ、 床は晶玉、 ゆびとゆびとのあひだから、 まつさをの血がながれてゐる、 かなしい女の屍体のうへで、 つめたいきりぎりすが鳴いて…

苗は青空に光り、 子供は土地《つち》を掘る。 生えざる苗をもとめむとして、 あかるき鉢の底より、 われは白き指をさしぬけり。 目次に戻る

山居

八月は祈祷、 魚鳥遠くに消え去り、 桔梗《ききよう》いろおとろへ、 しだいにおとろへ、 わが心いたくおとろへ、 悲しみ樹蔭をいでず、 手に聖書は銀となる。 目次に戻る

感傷の手

わが性のせんちめんたる、 あまたある手をかなしむ、 手はつねに頭上にをどり、 また胸にひかりさびしみしが、 しだいに夏おとろへ、 かへれば燕はや巣を立ち、 おほ麦はつめたくひやさる。 ああ、都をわすれ、 われすでに胡弓を弾かず、 手ははがねとなり、…

雲雀料理

五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする。したたる空色の窓の下で、私の愛する女と共に純銀のふおうくを動かしたい。私の生活にもいつかは一度、あの空に光る、雲雀《ひばり》料理の愛の皿を盗んで食べたい。 目次に戻る

いと高き梢にありて、 ちいさなる卵ら光り、 あふげば小鳥の巣は光り、 いまはや罪びとの祈るときなる。 目次に戻る